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<漱石が語る「道楽的職業」とは何か? そして私たちが縛られている「職業はこうあるべき」という物語と、それを解きほぐすことの重要性について>
年末にとある研究者仲間の相談に乗った。これまで比較的順調に進んで無事に博士号を取得して、さあ自立して自由に研究しようという段階にきて、思うように進捗しない焦りや、研究者の業績主義による熾烈な競争・厳しい経済的状況を知って、行き詰まってしまったようだった。
その様子を見て、ふと夏目漱石の「道楽と職業」(1911年)を思い出し、いまだに現代と似通ったところがあって面白く読んだ。これは漱石が近代日本における職業・仕事観を論じた講演録である。もちろん大きく変化した部分もあるにせよ、100年以上前から同じようなことが繰り返されていることがよくわかる。
漱石は冒頭で、学問を修めた者が汗水垂らして仕事を探しているのに職業が見つからない、と嘆いている。秀才を遊ばせておくのは本人のためにも国のためにも損だから、世の中にはどのような職業があってその制度はどのような仕組みになっているのか、大学で職業学という講座を開いたらどうか、という提案までしている。
職業学講座の提案は筆者にとっても身につまされる話だ。私は博士号を取得するという年度末になっても何も仕事がなく、ハローワークや就活サービスで職探しをして、しばらく大学から離れてフルタイムで働いていたからだ。
人文科学系の分野ということもあり本や資料があれば少しずつ研究を進められたので、仕事とは仕事と完全に割り切り、帰宅後の夜に論文を書いていた。その時期、自分にとって研究は趣味、つまり道楽だった。
漱石曰く、道楽は自己本位、仕事は他人本位である。同じような作業をするにしても、「道楽」のように自分の裁量ではなく、他人のために行なうとなると「仕事」となり、他人の都合に合わせなくてはならなくなるので途端に苦痛になる。
しかしこの世の中で、全てを自給自足で賄って生活していくことはできない。だから自分が他人のために行う仕事の分量と、他人が自分のために行ってくれている仕事の分量がちょうど等分になって社会が回っていくのだという。そして近代開化が進めば進むほど職業は細分化・深化されていき、個人一人一人がやりくりできる範囲が狭められて、逆に不自由になっていくという。(その極みが博士である。)
ただし、どうしても他人本位では成り立たない職業が存在する。それは科学者や哲学者、それから芸術家である。
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