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スマホで動画を見る、ゲームをする、音楽を聴く、服を買う、友達とメッセージをやりとりする、SNSのタイムラインを追いかける――。これらは、いま、大学教員が講義のなかで実際に目にしている学生たちの姿である。何百万円も「課金」している授業よりも、「無料」で観られる動画のほうが関心事というわけだ。「面白い授業をすれば学生は聞いてくれる」という正論を筆者も信じてはいるが、授業開始前からイヤホンをしている学生に声は届くだろうか。
もちろん、いつの時代も「不真面目な学生」はいる。だが、教員の身体と人格が、大学が、そして書物が、スマホの前に立ちすくむようになったのは近年の現象である。思考や知的コミュニケーションのあり方は、メディア論的な変容を遂げてしまった。これを嘆いても仕方がない。では、どうすれば思考や知的コミュニケーションは活性化するのか。デジタル化した世界は、学びの場の再編成を要請している。
今回の堂島サロンのテーマである「ネット時代の学知のゆくえ」は、河野通和氏を講師に招き、ネット時代における学びの可能性について議論を交わした。河野氏は、中央公論社や新潮社の編集者として雑誌『中央公論』や『考える人』などの編集長を歴任、現在は「ほぼ日の学校長」を務めている。
「ほぼ日の学校」は、コピーライターの糸井重里が主宰するウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」が運営する学校で、「やさしく、つよく、おもしろく」をモットーに2017年に始動した。ほぼ日の学校では、シェイクスピアに歌舞伎、万葉集にダーウィンと「古典」が扱われ、第一線の講師陣が99名の受講生の関心に応える。ほぼ日の学校のホームページには、「心、気持ち、魂といった深い部分でおもしろがれるような時間。一方的な伝達ではなく、双方のやり取りによって互いのたのしさが相乗するような経験」が謳われ、講師・受講生双方の知的な喜びと感化が目指されている。
双方のやり取りとおもしろさが重視されるため、受講生の主体的な参加を促すしかけが意識的に取り入れられている。たとえば、『真夏の夜の夢』を演じたり、受講生が詠んだ短歌を俵万智が批評したり、万葉集をめぐる修学旅行に出かけたりなどといったワークショップが開催される。また、教室の設えや小道具にも工夫を凝らし、受講生の気持ちをハイにするためのアトラクティブな空間演出を施している。参加と演出がもたらす演劇性の高さによって、ほぼ日の学校の受講生は身体的に学びの場へと巻き込まれていく。
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