理解の限度が百五十ということは、逆にいえば、人間は世界を理解するためにそのファクターをつねに百五十以下に絞る傾向があるということである。これは要するに、人間は世界に合わせて世界を見ているのではなく、自分に合わせて世界を見ているのだという、古くから言われていることの反復である。さらに言えば、人は畢竟、自分の模型、箱庭、盆栽に合わせて世界を見ているのだということになる。
この反転はじつに興味深いが、しかし、これこそ四部門の候補作のすべてが実行していることなのだ。芸術、文学、社会、風俗は言うまでもない。政治も経済も思想も歴史も、その研究はすべて現に生きた人間の軌跡を追うが、それら人間のすべてが、それぞれの持つ模型、箱庭、盆栽に合わせて世界を見、世界を変革しようとしているのである。研究者が描くのはその機微でありメカニズムだが、しかし選考委員が感銘を受けるのは、描いているその研究者もまた研究者自身の模型、箱庭、盆栽にもとづいて描いているというそのありようなのだ。これを簡単に、研究者の人間のありようと言ってもいい。文芸批評とまったく変わらない。煎じ詰めれば人間への関心である。
選考を通じて理解した最大のことはこのことだった。それはつまり、ただ人間への深い関心だけがサントリー学芸賞を貫いていたということの、いわば再発見だった。
サントリー学芸賞はあくまでも学芸賞であって学術賞ではないとしばしば言われる。外部においてもそうだろうが、選考委員会でもよく話題にされる。対象となる著作が学界のみならず一般にも広く開かれているかどうかという意味に解してよいだろうが、話題にされている核心はじつはそうではない。よく考えてみると、むしろ人間への関心が鮮明かどうかということなのだ。
かりに学術という語を専門に特化した研究と受け取るとして、それでさえも人間への関心に貫かれていることは疑いない。だが、それが鮮明か否かということになると違ってくる。人間への関心が脈動していることが分かるということ、つまり、研究の対象のみならず、研究者自身の人間としての息遣いが分かるということが、学芸と学術を分ける分水嶺になっている。そう考えたほうがいいような気がする。
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