むろん、模型も箱庭も盆栽も、人間において俯瞰することへの欲望がいかに強いかを示している。世界を一望のもとに把握しようとする欲望の対象化である。視覚的存在としての人間の本質にほかならない。だが、制度を改め都市を築き山河を変える者にしてみれば、あるいはまたそれを批評、批判し、自ら世界を変革しようと企てる者にしてみれば、箱庭は所詮、箱庭。誤っても文芸批評は実害をもたらさないが、対するに政治批評、歴史批評は実害をもたらすのだ。ということは実利をもたらすことがつねに期待されているということ。実利をもたらすものが幅を利かすのは当然と言うべきだろう。
打ち明けて言えば、私は長いあいだ法学部という学部が何のためにあるのかよく分からなかったのだが、ここにいたってはじめて腑に落ちたのだった。法学部とはつまり立法、司法、行政の具体的な技術を教える学部だったのである。法の解釈とは、畢竟、議会すなわち市民の代表に対する行政の答弁のことなのだ。解釈すなわち文芸批評だが、それが本物の文芸批評と違うのは、実利あるいは実害をもたらす点である。私は、法学部が弁護士ではなく官僚を生み出すための装置であることがようやく納得できたのだった。
むろん、模型、箱庭、盆栽も役に立たないわけではない。逆である。模型すなわち設計であり計画だからだ。計画はつねに俯瞰すなわち模型を必要とするのである。
たとえばこういうことがある。ロビン・ダンバーという人類学者が、チンパンジーの研究から推して、人間がそれとして認識できる友人の数、すなわち名と顔を結びつけてただちに思い浮かべられる友人の数は、上限が百五十人であるという説を出して話題になった。ダンバー数というが、これが重要なのは、組織は百五十を単位に拡大するのが得策であるという結果が出てくるからである。選挙にしても、一人ひとりが百五十人ずつ支援者を増やしていけばいいということだ。
それだけではない。『水滸伝』の豪傑百八人を思い出すが、小説のみならず、政治・経済、芸術・文学、社会・風俗、思想・歴史の著作すべてにおいて、登場人物の上限は百五十人、できれば百人以下が望ましいというようなことも出てくるのである。国内政治あるいは国際関係を読み解くためのファクターにしても同じ。著作はもちろんのこと、現実の交渉においても、この数の問題はきわめて重要ということになる。
vol.100
毎年春・秋発行絶賛発売中
絶賛発売中