アステイオン

サントリー学芸賞

『サントリー学芸賞選評集』刊行記念企画vol.1 人間という不思議なもの

2019年03月01日(金)
三浦雅士(文芸評論家)

SUNTORY FOUNDATION

サントリー学芸賞については、ここ数年、理事としてすべての候補作を読み、すべての選考委員会を傍聴し、部門間の調整をするという役割を担っている。一介の文芸批評家にすぎない私にそれだけの能力があるとはとても思えないが、個人的にはきわめて有益な体験をすることになったと感謝している。その感想をここに若干書きしるしておきたい。

この賞は、政治・経済、芸術・文学、社会・風俗、思想・歴史の四部門から成り立っている。とはいえ、賞の方針としてインターディシプリナリーすなわち学問領域横断を奨励しているほどだから、部門の範囲は厳密なものではない。しばしば候補作が他部門と重なることがある。諸学問は前世紀末から発展が著しく、必然的に専門性を増してきている。したがって細分化し、いわば蛸壺化する傾向にある。にもかかわらず、その先端部分はかえって他の学問領域に接することが多い。興味深い事実である。

だが、ここに書いておきたいのはそのことではない。強烈に印象づけられたのは、そういう潮流のあるなしにかかわらず、そのはるか以前に、四部門の対象そのものが、またその選考にしても、じつは文芸批評に酷似していたということである。

たとえば政治の領域。政治家とその業績は作者と作品の関係に等しい。したがって政治学者は批評家に等しい。これを、官僚とその業績、実業家とその業績と言い換えても同じことである。業績の積み重ねを歴史という。歴史上の人物はみな作者であり、その軌跡すなわち人生は作品であると言い換えることができる。とすれば、歴史家もまた批評家にほかならないということになる。政治学者も歴史学者も根本は批評家なのだ。それも、多くは文芸批評家などよりよほど凄味のある批評家なのである。

まことに初心な、あるいは素朴な感想だが、私はこの事実に驚倒した。すべての候補作を読み、すべての選考委員会に出席して得た体験の、これが核心だった。

考えてみれば、孔子の『春秋』にせよ司馬遷の『史記』にせよ、尽きるところ批評にほかならない。だがそれはまた戯作の類が蔑まれたことの理由でもある。実物にとっては模型のようなものだからだ。いわば箱庭、盆栽にすぎない。文芸批評は、政治批評、歴史批評に比べれば、いわば箱庭批評にすぎない。そのこともまたよく分かったわけだ。

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