2018年2月、ドイツのベルリンで開催された第68回ベルリン国際映画祭での記者会見 Denis Makarenko-shutterstock
2023年3月に坂本龍一が亡くなった時、中国外交部のスポークスマンが定例会見で哀悼の意を表明した。そのニュースを見て、坂本が中国で愛されていることを初めて知った日本人が多かっただろう。
私もその一人だった。気になって調べてみると、坂本と中国には、1960年代の毛沢東主義への関心から始まる長い縁があるとわかった。日中の文化交流史としておもしろいテーマだと思い、「坂本龍一と中国」という論文を書いて大学の紀要に投稿した。
『アステイオン』99号の特集「境界を往還する芸術家たち」は、日本を「視座の中心」におき、日本人や日系人の芸術家に焦点を当てている。
長木誠司氏の「ヨーロッパで活動する日本人音楽家」の冒頭で、坂本龍一がニューヨークを拠点に活動していたことが言及されているように、日本からアメリカやヨーロッパに向けたベクトルで語られることが多いテーマだろう。
本特集ではそこに南米が加わっていることが新鮮である。ブラジル社会における日系アーティストの活躍や、日本に住むブラジル出身者の「デカセギ文学」など、これまで私の知らなかった世界を見せてくれた。
ただ、日本人にとって「境界」を越えたすぐそこにあるのはアジアである。とりわけ中国について語ってみることは今日的な課題であるし、21世紀の日本の芸術がどこに向かうのかを考える上でも避けては通れないだろう。
1970年代にものごころつき、80年代に青春を過ごした私のような世代にとって、坂本龍一といえばYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)で活躍していた頃のイメージが強い。
論文には恥ずかしくて書かなかったが、中学校の体育の授業で女子だけの「創作ダンス」に取り組んだ時、私はYMOの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」を選曲し、先頭に立って振り付けを行なった。
何の曲を使うかは自由だったが、半数以上のグループが「ライディーン」などYMOのヒット曲を選んだ。1980年代初頭の日本でいかにYMOが流行っていたかの証である。
その後坂本は映画『ラストエンペラー』(1987年公開)の音楽を担当し、日本人として初のアカデミー賞作曲賞を受賞した。
テクノポップのスターだった坂本が、どのような経緯で世界的な映画に関わるようになったのか、当時は詳しく知らなかった。ただ二胡の音色が印象的な「ラストエンペラーのテーマ」は、どこでもよく耳にした。
映画公開後40年近く経った今でも、この曲は中国関係のテレビ番組のBGMとして流れることがある。二胡の音色を、中国のイメージを喚起するものとして日本人の間に定着させたのは、坂本の功績であろう。
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