最後に挨拶に立たれた猪木武徳名誉教授が、「全体を見渡すという知恵が我々からどんどん奪われていく」状況に警鐘を鳴らされ、また、我々人間には「合理的なものだけで説明されるとばらばらになってしまうという恐怖感」があると指摘された。このお話をうかがいながら、議論の中で文学を専門とされる先生から、仏教は未来を設計しており、未来の設計に従って時が経過するが、きちんとした仏教の設計図とは別に、もう一つ来迎とか浄土とか往生というのがあり、常人がちょっと手元にない未来を考えようとする時に身投げという過激な道を選ぶ者がいたというお話があったことを思い出した。
昔、南方にある補陀落という観音の浄土を目指して熊野あたりから身投げをした者たちがいた。それは、未来を求めて、未来の幸せを求めて命を捨てて身を投げるという行為であった。こうした身投げの投企(project)性は、現状の変更を未来へ投射してゆくものとして、未来への見通しをつける現代の試みと通底するところがあるかもしれない。だがしかし、投企の投企たる所以は、断絶、飛躍、矛盾にこそあるのではないだろうか。未来がこちら側になく向こう側にしかないと信じて身投げをした中世の人びとの目には、未来学、未来デザイン、未来シナリオなどのアプローチは、はるか彼方の彼岸めがけて投網を打ち、あわよくばそれを捕まえてこちらに引き寄せようとする試みと映るかもしれない。此岸と彼岸が地続きになってしまったら、人間はどこで往生すればよいのだろうか。
早丸 一真(はやまる かずまさ)
日本国際問題研究所 研究員
2017年度 鳥井フェロー
※SSIのWEBサイトにも開催報告が掲載されています。
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