World Voice

中東から贈る千夜一夜物語

木村菜穂子|トルコ/エジプト

南東部の大地震から1年目を迎えたトルコ - 復興は進んでいるか?

筆者撮影 - Old Antakya (旧市街) の一角にて

去る 2 月 6 日にトルコは、未曽有の被害を出した南東部の大地震から丸 1 年を迎えました。壊滅的な被害を受けたアンタキヤに私が入ったのは地震から 1 か月後でした (その時の様子はこちらの記事からお読みください)。地震後の復興はどの程度進んでいるのか...大地震から1年を迎えたアンタキヤに改めて足を運ぶことにしました。

荒涼としたアンタキヤ

結論から言いますと、アンタキヤには、つい数日前に地震が起きたかのような錯覚さえ覚えさせるようなエリアがまだ多く残っています。倒壊した住宅の瓦礫こそ片づけられたエリアもありますが、荒れ地となったままで住宅の再建のめどが立っているとは到底言えません。「荒涼とした」という表現がぴったり当てはまります。

IMG_9279.JPG筆者撮影 ‐ まだ解体そのものが終了していない建物も

地震から 1 年という節目である 2 月 6 日には、被災地ごとに式典が催されました。アンタキヤでも地震が起きた時刻 (明け方 4 時 1 7分) に合わせて、市内を流れる川に赤いカーネーションを投げ入れる催しが行われたようです。この日は、別の都市で避難生活を送る人たちや仮住まいのコンテナハウスに住んでいる人たちがアンタキヤ市内を訪れていたので、街にはある程度の活気がありました。

しかしすぐに気づきますが、市内には人が住んでいるような家はほぼ見当たりません。アンタキヤ市内の 95% が壊滅的な被害を受けたという人もいますが、実際に足を運んでみるとその言葉にうなずけます。アンタキヤの現状は、「復興らしき復興はまだ見られない」と表現できるかと思います。

IMG_9265.JPG筆者撮影

トルコ南東部の大地震の概要

ここで昨年起きたトルコ南東部大地震の概要を少しまとめたいと思います。この地震の規模はマグネチュード 7.8 で、11 都市 (およびシリア北部) に甚大な被害が及びました。死者数は発表されているだけでも 5 万 9000 人(実際の数ははるかに多いといわれています)、けが人は 10 万 7213 人。この地震で何らかの被害を受けた人は 1400 万人に上るといわれており、85 万件の住居が倒壊または壊滅的な被害を受けたといわれています。

地震による影響.JPG Youtube の番組から:ちなみにこの死者数はトルコとシリアの両方の死者数です。トルコだけでは 5 万 3 千人といわれています。

なお、この地震については自身のインスタで回想録として記録しております。

住宅再建の約束

この地震で、住居から退去せざるを得なかった人の数はトルコでは約 300 万人に上ります。地震後のスピーチでエルドアン大統領は、家を失った人々のために 65 万件の住居を向こう 2 年にわたって建設すること、そのうち 31 万 9 千件は 1 年以内に提供することを約束しました。

ただ残念ながら、現状はかなり異なっています。今回 1 年目を迎えるにあたり、被災地で 7 万 5 千件の住居の建設が 2 か月後をめどに完了予定であることが発表されました。しかし実際に建設が完了しているのは 2 万件に満たないといわれています。

地震の影響を受けた被災地で現在ポツポツとみられるのは、コンテナ・シティ。コンテナの家が整然と立ち並んで町のようになっているエリアです。現在被災地の全域にこうしたコンテナ・シティは 400 ほど建設されており、そこで暮らす被災者の数は 70 万人といわれています。気が遠くなるような人数です。

IMG_9289.JPG筆者撮影

このコンテナハウスはかなり機能的で、家の中に簡易キッチンあり、トイレとシャワーあり、冷暖房の設備もあり、ソファなどの家具も備え付けられており、生活がすぐに始められるように整えられています。機能的ではあるものの、サイズはとても小さく、4 人家族が限界といったところか。ただ、5 名以上で住んでいる家庭もあり、避難生活が長期化するとストレスが溜まるであろうことは容易に想像できます。とはいえ、いまだにテント生活を余儀なくされている被災者たちが一定数いることを考えると、たとえスペースが限られていても、コンテナハウスでの生活はかなり快適であるといえます。

現在急ピッチで進められている住宅の建設。しかし、地震で徹底的に破壊された都市を 1 から作り直すには、綿密な都市計画のプランが必要です。日本でも地震後は、被災者のためにまず仮設住宅が準備されるのが普通かと思います。団体での避難生活やテントでの避難生活ではなく、仮設であってもプライバシーを確保できる場所にいったん落ち着いてもらうのが先決なのではないかと思います。住宅の再建うんぬんはそれからではないでしょうか。

そうでないと、慌てて建設を進めたマンションや住宅の安全性は本当に確立されているのかという疑問も残ります。ですから、トルコでもまずはすべての被災者に仮設住宅 (コンテナハウス) が備えられることが急務なのではないかと思います。

アンタキヤの苦悩

さて、この記事の冒頭で触れたアンタキヤに話を戻したいと思います。アンタキヤはハタイ県の中心都市で、何千年という歴史を持つ古い都市。エスキ・アンタキヤと呼ばれる旧市街には築何百年という歴史的建造物も数多くありました。いえ、むしろ、この旧市街にあったすべての家が歴史的建造物であったといった方が正確かもしれません。石の一つ一つに歴史が刻まれているといっても過言ではない。旧市街はほぼ壊滅してしまいましたが、こうした石を単なる瓦礫として簡単に撤去はできません。こうした理由もあり、旧市街の復興は遅々として進みません。地震後そのままの瓦礫が至る所に残っており、今後もしばらくはこのままの状態が続くようです。

地震前のハタイ県の人口は 150 万人 (うちアンタキヤは約 40 万人) でした。地震後、50 万人以上が自宅からの退避を余儀なくされました。現時点でハタイ県外の避難先で暮らしているのは 12 万 8 千人。一時的にハタイ県から避難した人のうち、40 万人はこの 1 年のうちに戻ってきました。これにより、イスケンデルン、アルズ、レイハンなどハタイ県で人口が増えた地区もあります。ただ、ハタイ県の中心都市であるアンタキヤだけは人けがない状況が続いています。かつては誰もが憧れたアンタキヤ。常に活気にあふれていました。ところが、1 年経った今もアンタキヤだけは全人口の 40 万人がほぼごっそり抜けたゴーストタウンのような様相。アンタキヤでは生活ができないので、ハタイ県の別の地区にとどまり、アンタキヤへ戻ってこれるときを待ちわびているトルコ人が多くいます。

"Sesimizi duyan var mı?"

震災 1 年の節目のアンタキヤでの式典では、政府への不満が爆発しました。与党や野党の議員が式典に合わせてアンタキヤ入りしましたが、野次やブーイング、また怒声に迎えられる結果になりました。

アンタキヤの 95% の建物が半壊または全壊し、数えきれない人が瓦礫の下で亡くなりました。地震発生直後は生きていた人たちも多く、助けが何日も来ない中、倒壊した建物の下で冷たくなっていった人が多かったのです。アンタキヤの人々の脳裏には「救助活動は後回しにされた」という記憶が焼き付いています。人々が待ちわびた救助活動では、救助隊員が「Sesimi duyan var mı (誰か聞いているか)?」=生きている人はいるか? と瓦礫の山々に呼びかけました。でもその言葉に反応した生存者はほぼいませんでした。

この言葉「Sesimizi duyan var mı (誰か聞いているか)?」が今回の式典で民衆の掛け声として使われました。地震直後の政府の対応の遅れ、そして 1 年経っても生活がほとんどできない状態のままであることなどに対する不満が爆発した形です。

Sesmiz duyan var mi.JPGYoutube のチャンネルから。「Sesimizi duyan var mı (誰か聞いているか)?」というプラカードを掲げる女性。

今後の復興の行方

かつて観光名所だったアンタキヤには現在ほぼ何も残っておらず、復興への道は険しいと言わざるを得ません。とはいえ、ウズン・チャルシュと呼ばれる歴史的なバザール (商店街) では、お店を開け始めた店主たちもいます。建物はダメージを受けています。が、倒壊はしていない。そんな商店街でとりあえず商売を始めているのです。人けがすっかり消えたアンタキヤで、ここだけは商品が並び、人々がぽつりぽつりと足を運ぶエリアになっているようです。

今後この歴史的な都市がどのように変化を遂げていくのか...。長期戦になることは免れません。でも様々な帝国の興亡に伴ってアンタキヤはいつも存続し、栄えてきました。どんなに時間がかかってもアンタキヤを復興させるというのがアンタキヤの人たちの強い願いでしょう。

IMG_9264.JPG筆者撮影 - 今はない建物の跡地に「Rana Apartment があった場所。ここに戻る」と書かれています

そして、これはトルコのどの被災地にも当てはまります。みな、自分が生まれ育った場所には特別な思いを持っています。いったん離れてもやはり戻ってくるトルコ人が多い。自分が生きる場所はここだ、復興を見届けたい...そんな思いで 1 年目という節目を被災地で迎えたトルコ人たちがたくさんいます。

 

Profile

著者プロフィール
木村菜穂子

中東在住歴17年目のツアーコンサルタント/コーディネーター。ヨルダン・レバノンに7年間、ドイツに1年半、トルコに7年間滞在した後、現在はエジプトに拠点を移して1年目。ヨルダン・レバノンで習得したアラビア語(Levantine Arabic)に加えてエジプト方言の習得に励む日々。そろそろ中東は卒業しなければと友達にからかわれながら、なお中東にどっぷり漬かっている。

公式HP:https://picturesque-jordan.com

ブログ:月の砂漠―ヨルダンからA Wanderer in Wonderland-大和撫子の中東放浪記

Eメール:naoko_kimura[at]picturesque-jordan.com

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