World Voice

NYで生きる!ワーキングマザーの視点

ベイリー弘恵|アメリカ

世界チャンピオンとなったボクサー吉田実代がニューヨークへ来た理由は一人娘のためだった

©NY1page.com LLC

「ニューヨークに来ている方たちは、渡米できるくらいお金持ちだったり、仕事のための単身赴任の方もいたりしますが、私の場合は真逆です。」

シングルマザーに育てられ、自らもシングルマザーとなった今、家族崩壊の負の連鎖をとめたいことと、ボクシングで世界の舞台へ立つことを目指し、娘のためニューヨークへ渡ってきた。

「2回ボクシングの世界チャンピオンになっていて、やはりボクシングはアメリカが本場なので、本場で名の知れた大きな舞台で戦いたいです。」

メイクもすでにニューヨーカーっぽく、アイラインがくっきり入っている。そして近くにいるだけで、とってもいいパフュームの香りが漂う。

「最近はいただいたものを使ってますが、グッチのラッシュ2が好きです。お洒落も本来好きなので、見られることが多くなるから、ファッションにも気をつけるようにとアドバイスをいただいたこともあり、気をつけています。」

ニューヨークでは、どのように生計をたてていらっしゃるんですか?

「試合以外で普段は、トレーナとして教えています。マドンナの彼氏でアメフトの選手からボクサーへ転身したジョシュ・ホッパーも友人です。」

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©Dibella Entertainment

父親は会社経営をしていたが、荒くれものだったこともあり、吉田が3歳のときに離婚。そこからは母親が夜にスナックで働くため、兄と一緒に伯母の家へあずけられた。伯母は優しい人だったが、やはり本当の母のように甘えることはできず、幼少期から小学校をでるまで、伯母の家でいつも気をつかいながら暮らしていたという。

小学生のころは目立ちたがりやで、ブラスバンドの指揮者となった。スポーツでもすぐに頭角をあらわす。ソフトボールチームでは、『打てる、投げれる』どちらもいけるタイプで、たちまちスター選手となった。

「小学6年生のときに、ピッチャーがいなくなるから正式に入部してほしいと、監督が母に懇願してくれました。兄も野球部に入ったことがありましたが、送迎や遠征、そして監督への差し入れなどができないという理由から退部し、そのせいで母は入部を渋っていたのです。」

母親は人前にでて後ろ指をさされることに耐えきれない弱いメンタルだったらしく、ソフトボールの観戦に来ることはなかった。

「試合の観戦に関しては、『自分は活躍しているのだから、母が来なくてもまあいいか。』って思うようにしていました。それでも、一つだけ悲しかったのは、ソフトボール部の卒部式で部員それぞれが親子で来場しスピーチしたのですが、そこに母がいなかったことです。」

中学でもソフトボールを続け、中学1年生からピッチャーとして活躍したこともあり、妬まれていたのか、先輩からは生意気だと、いじめにあった。

「先輩からグローブを隠されたときに、何もいわず家に帰って、部活を辞めました。」

ソフトボールの後はダンスをはじめ、クラブやショーケースで踊ることとなった。

「右ターンのときに、自分だけ左ターンしたことがあって、ダンスのセンスがないってわかったのが16歳。ダンスへの情熱にキラキラ目を輝かせている友人のように、自分はなれないってわかったのが17歳でした。」

お金を貯めるためだけに、ダラダラと水商売を続けたくなかったこともあり、『20歳までに自分だけの夢を必ず見つける。』と自ら人生のターニングポイントを決めた。

「20歳になる直前に、デパートでゾーン体験という海外留学のポスターが目に入りました。身体を動かすことが得意で、今の自分にやれることは格闘技でした。3か月、ハワイへ住み込みで、キックボクシングをやるために行くことを決意しました。」

ハワイへ渡ると、見た目がギャルだったためか、日本人の会長から『どうせ続かないだろう。』と、雑に扱われ、いきなり現地の女子とスパークリングをさせられた。

「ボコボコにやられましたが、痛いよりも、楽しくて、生きているって思えたんです。コレだ!自分はコレで生きていこうって。」

ハワイには観光ビザで入っていたため、3月後、格闘技が流行っていた日本へもどって東京へ移住した。

「後楽園ホールで、総合格闘技でのデビューを果たしました。勝利には至りませんでしたが、寝技以外は勝っていたので、キックボクシングのほうが自分には向いてると。シュートボクシングやムエタイにも挑戦し、国際戦にも臨みました。」

24歳のとき、組織の制約により試合ができなくなり、キャリアの最盛期にも関わらず1年間、試合のできない状況に直面することとなった。腰痛も悪化し、蹴りも力が衰えていく中、焦燥感ばかりが先走った。

「プロボクシングに合格したのは、26歳でしたが、これから頑張るぞというときに、妊娠がわかって引退することになったのです。」

娘が生まれてから3年後、1年で7試合が決まるほどオファーが殺到した。が、出戻りだったこともあり、ジムのメンバーからは敬遠されていた。そのため、ジムの近くへ行くと腹痛がでるほどストレスを感じるようになった。

「別居から離婚までの一年半は、養育費や国からの補助は一切もらえず、頼る親もなく、ボクシングと仕事と育児で2時間睡眠でした。」

29歳で初代日本のバンタム級チャンピオンになった。シングルマザーだということも公表したが、当時、信頼をよせプライベートでも結婚前提の親密なつきあいであったトレーナー北野が不慮の事故で亡くなった。

「彼が亡くなって、ジムに入れないくらい人生で一番つらいときでした。日本のタイトルマッチは、3か月以内に指名挑戦者と戦うルールがあります。それでも日常が試合をやめて地元へ帰ろうかと思ったりしましたが、一番、無念に思っているのは亡くなった彼で、自分が試合にでなければ彼は成仏できないと、防衛戦にのぞみました。」

そこから無敗で5年続けることができた。北野の3ケ月目の命日に、日本タイトルを防衛。怖いものがなくなった。翌年アジアタイトルを獲得、翌々年、女子では初となる大会場で有名男子選手と並ぶトリプルメインイベントに大抜擢。井岡選手(井岡一翔 いおかかずと 日本のプロボクサー)、京口選手(京口紘人 きょうぐちひろと 日本のプロボクサー)、世界チャンピオンになりたくさんの仲間ができた。

アメリカでビザのスポンサーとなってくれるプロモーターのルー・ディビラとの出会いで、ルー率いる老舗ボクシングプロモーター、ディビラ・エンターテイメントの契約選手となった。日本から海外へ移住して大手プロモーターと契約した上、世界タイトルを再奪取したのは日本人初である。

こうしてビザのスポンサーとなってくれる人があらわれたことにより、JBC※1から脱退したのだった。JBCを筆者も知らなかったが、日本のボクシングコミッションであるJBCを抜けるということは、彼女にとって日本を捨て、決死の覚悟をもってアメリカへ渡るようなものだ。

ニューヨークへ渡ってからは、チームSOSAの支えもあり、2023年12月9日にバンタム級世界王者をとった。海外で世界タイトルをとった日本人で女子は史上初だという。

「一番近くにいる娘を幸せにしてあげたいという思いから、自分は渡米してきました。

日本には、私のように家庭環境に問題があり、同じ悩みをもつ人たちがいます。そして才能があったとしても、目立ってはいけない環境にあります。アメリカは自由なので、私の場合は、自分に向いているのか、のびのびと生きることができています。

これまで起きた出来事のすべてに感謝していて、こういうことがあったから、自分はアメリカにいるのだと、すべてプラスの出来事に変えようって思っています。

そしてこれからも、自分の人生をぜったいにあきらめません。くよくよすることがあるかもしれないけれど、周りに相談できる相手がいて、胸のうちを話せることに、恵まれていると感じます。

自分の幸せを保てれば、周りを幸せにできるし、娘も幸せにできる。自分を楽しくしていけば、周りや娘も楽しくなると信じています。」

※1JBC・・・にほんボクシングコミッションJapan Boxing Commissionの略。一般財団法人日本ボクシングコミッション(にほんボクシングコミッション、英:Japan Boxing Commission、JBC)は、日本においてプロボクシング競技を統轄する機関。1952年4月21日に設立された。世界ボクシング協会(WBA)・世界ボクシング評議会(WBC)・国際ボクシング連盟(IBF)・世界ボクシング機構(WBO)・東洋太平洋ボクシング連盟(OPBF)に加盟している。

【吉田実代 獲得タイトル】

プロキックボクシング
初代GLADIATORキックルール女子バンタム級王座

プロボクシング
○初代日本女子バンタム級王座(防衛2=返上)
第6代OPBF東洋太平洋女子バンタム級王座(防衛1=返上)
第5代WBO女子世界スーパーフライ級王座(防衛1)
第7代WBO女子世界スーパーフライ級王座(防衛0)
第8代IBF女子世界バンタム級王座(防衛0)

(Wikiペディアより引用)

【吉田実代関連リンク】
Instagram https://www.instagram.com/miyo_yoshida_/
Youtube https://www.youtube.com/@user-bg6ln3pe6z
Promoter https://www.instagram.com/dibellaent/
NY Gkeasibsgym https://www.instagram.com/gleasonsgym/

 

Profile

著者プロフィール
ベイリー弘恵

NY移住後にITの仕事につきアメリカ永住権を取得。趣味として始めたホームページ「ハーレム日記」が人気となり出版、ITサポートの仕事を続けながら、ライターとして日本の雑誌や新聞、ウェブほか、メディアにも投稿。NY1page.com LLC代表としてNYで活躍する日本人アーティストをサポートするためのサイトを運営している。

NY在住の日本人エンターテイナーを応援するサイト:NY1page.com

ブログ:NYで生きる!ベイリー弘恵の爆笑コラム

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