基地と経済、日本政府との交渉、安倍-菅ラインの歴史認識、コロナ禍......沖縄県政史を読み解く
WE NEED TO SERVE TWO ENDS
保革共闘の「オール沖縄」の翁長県知事は沖縄の歴史に深い理解を示さない安倍首相と対峙した(2016年、いずれも当時) Kimimasa Mayama-Pool-REUTERS
<「基地」と「経済」の間で揺れてきた沖縄の歴史。保革対立を繰り返す知事選の系譜から「選択の理由」が見えてくる――野添文彬・沖縄国際大学准教授に聞いた>
沖縄の本土復帰50年は「基地」と「経済」の間で揺れる歴史でもあった。
県知事選挙では財界が常に重要な役割を果たしてきた。加えて財界からは石油販売会社「りゅうせき」のトップだった稲嶺恵一、沖縄電力会長の仲井真弘多と2代続けて知事を輩出した。沖縄で経済と政治はどのような関係にあるのか。
沖縄県政史を研究する沖縄国際大学准教授の野添文彬にノンフィクションライターの石戸諭が話を聞いた。
――沖縄では、経済状況がいいと基地問題を争点に掲げる革新陣営が票を集め、景気が後退すると経済を優先課題とする保守陣営に支持が流れると言われている。
その傾向があったのは事実だ。大きな理由は沖縄と本土の決定的な格差だ。1人当たり県民所得は復帰後から現在まで、常に全国最低水準のまま。経済問題が大きな課題としてのしかかっている歴史がある。
沖縄初の保守派知事は1978年に当選した西銘順治だが、当選の背景にあったのは1975年の沖縄海洋博以後の不景気だ。西銘は自民党、それも田中角栄が率いていた田中派で衆院議員を務めていた経験がある。
保守派最大のアピールポイントは、日本政府とのパイプだ。西銘が県知事になれば振興予算をもっと取ってくることができるというものだった。政府から予算を取り、公共工事をすれば雇用が生まれ、開発も進む。県内企業も県民も所得が増えていく。
だからといって西銘は政府の言いなりになっていたわけではない。西銘はもちろん冗談ではあるが、「沖縄への高率補助が認められないなら日の丸を返上して沖縄は独立する」と切り出すなど、政府相手にかなりしたたかな交渉をしていた。沖縄戦以降の歴史的な経緯で結果的に日米安保の要となってしまった沖縄の置かれた立場を最大限活用していた。
最近で言えば、普天間基地の辺野古移設問題で翁長雄志、後継の玉城デニーが強硬に移設反対を主張し続けたのは、2010年代後半に観光業がかなり好調となり、沖縄経済が潤っていたという要因が大きかった。
大切なのは沖縄にとって基地と経済が、それぞれ切り離された問題ではなく、事実として常にリンクしている問題として捉える視点だ。ここに日本政府、国際情勢も絡んでくる。
――「基地か、経済か」という対立軸だけではリンクは見えてこないと。
大田昌秀県政の初期が良いケースだ。1990年に西銘と争い当選した大田は、基地問題を争点に政府と対立した革新系知事、というイメージが強いのだが、特に初期はこうしたイメージと異なる県政を展開していた。のちに県知事になる仲井真を副知事に迎え入れるなど、財界にもウイングを広げる体制を作っていた。
背景にあったのは、冷戦の終結だ。当時は冷戦が終わり、米軍基地が不要となり、沖縄に土地が返ってくることが、現実的にあり得ると考えられていた。実際に一部とはいえ90年代にも基地の返還はあり、返還された土地の再開発は進んだ。
基地の跡地をどのように活用すれば沖縄が潤うことになるのかを経済界も真剣に考えた時代にあって、革新系ではあるが大田は許容できる知事だった。
最終的に大田は保守派が擁立した稲嶺に県知事選で敗れるが、その一因はやはり90年代後半の不況にある。