100年前の建党時から中国共産党に貢献してきた日本
そんなわけで1948年に、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって書かれた『共産党宣言』(ドイツ語)を含めた多くのマルクスの書籍あるいは論文は、日本語版を中国語に翻訳したものが多い。
特に毛沢東の唯一の恩師である楊昌済は、1903年に日本に留学して弘文学院で日本語を学習した後、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学して1909年まで教育学を学んでいる。楊昌済は、毛沢東が通っていた湖南第四師範学校で教科書としてドイツ人哲学者、フリードリッヒ・パウルゼンが著した『倫理学原理』を使ったが、これは日本人の蟹江義丸がドイツ語から英訳されていたものを日本語に翻訳し、それを後に北京大学の学長となる蔡元培が日本語から中国語に翻訳したものだった。
この『倫理学原理』が毛沢東をマルクス主義へと誘(いざな)い、やがてはここから「マルクス主義の中国化」という中国共産党の柱となる論理が生まれていく。
日中戦争時に日本軍と結託した毛沢東
6月21日のコラム<中国共産党建党100周年にかける習近平――狙いは鄧小平の希薄化>で述べたように、毛沢東率いる中国共産党軍(紅軍)は蔣介石率いる国民党軍に追われて1934年に江西省瑞金に築いていた中華ソビエト政府を放棄して「長征」を始める。
1936年に中国共産党軍全軍が陝西省延安にたどり着くが、このとき中国共産党軍は貧乏のどん底にあった。
そこで毛沢東は周恩来の配下の藩漢年を遣わして張学長を誘い込み西安事変(1936年12月)を起こし、蒋介石を拉致して1937年から国共合作に追い込んだ。それにより国民党軍の禄を食(は)み、経費的に生き延びる道を求めた。その一方で国民党軍が戦っている相手である日本との結託を謀るのである。
1938年、中共のスパイ藩漢年を、今度は上海にある日本の外務省所管の岩井公館の岩井英一に接近させて、日本側に国民党軍の軍事情報を高く売りつけた。国共合作により国民党軍の軍事情報と共産党軍の軍事情報を共有することとなったので、国民党軍の軍事情報は容易に手に入る。それを日本側に売りつけて、日本軍が蒋介石・国民党軍を倒しやすいように仕向けていった。
毛沢東は共産党軍の軍力の70%は共産党軍の強化に充て、20%を国民党軍との妥協(協力)に充て、10%を日本軍との戦いに充てるという指示を出している。