曖昧な君が代は「歌わない国歌にせよ」という提案
賛否両論の狭間にある国歌の驚きの歴史を明らかにし、「聴く国歌」という新たな考え方を提示する『ふしぎな君が代』
『ふしぎな君が代』(辻田真佐憲著、幻冬舎新書)は、常に賛否両論の狭間にある国歌「君が代」について、そのなりたちから多様な評価、そして今後のあり方までを論じた書籍である。
いうまでもなく、「君が代」をめぐってはこれまで、肯定論と否定論が激しく対立してきた。肯定する側も否定する側も、ときとして感情に走る部分がなかったとはいえないだけに、論じにくい問題でもあったはずだ。
そんななか、右の立場から「君が代」の強制を主張するわけでもなく、左の立場から否定するでもなく、歴史をたどっていくことによって中立な立場を貫き通す著者のスタンスは評価に値するだろう。さまざまな思惑が行き交うからこそ、その客観性には説得力がある。
それにしても本書を通じて実感するのは、「君が代」について私たち、少なくとも私自身はあまりにも知らなすぎたということだ。もちろん最低限の知識は持っていたつもりだが、ページをめくっていくごとに「へー、そうだったのか」と驚かされるようなエピソードが明かされていくからである。
たとえば、「君が代」の原型ができるまでの経緯がまさにそれだ。
一八六九(明治二)年夏、フリゲート「ガラティア」艦長として世界を周遊していた英国王子エディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王の次男)が日本に立ち寄り、明治天皇に謁見することになった。史上初めての西洋王族の来朝であった。(中略)こうして歓迎の準備が進む中、突如として「国歌」の問題が浮かび上がった。横浜に駐屯していた英国陸軍第十連隊第一大隊軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンより「日本国歌はいかなるものでよろしいか」という問い合わせが接伴掛に届いたのである。(34ページより)
かくして英国国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン(神よ女王を守りたまえ)」とともに日本の「国歌」を演奏することになったものの、当時の日本には国歌という概念すら存在しなかった。そこで"新政府関係者の誰か"が、古歌としてすでにあった「君が代」の歌詞を選び、フェントンが作曲したことによりその原型が完成した。
ところが、フェントンによるメロディは日本語の歌詞とまったく合っていなかったため、雅楽師の奥好義が改良。さらに明治12年3月にドイツから来日したフランツ・エッケルトが洋楽器用に編曲したというのである。
しかも国歌となる過程においては、「"皇室の歌"にすぎない」、果ては「暗すぎる」などの批判も受けたのだという。いまでも賛否両論ある「君が代」は、そもそも誕生に至る経緯がアバウトで、それどころか当時から批判されていたということだ。また、さまざまなプロセスを経た結果、戦後は文部省(現・文部科学省)が新たな擁護者となったが、ここから「君が代」をめぐっての文部省と日教組(日本教職員組合)との対立がはじまることにもなる。