名門バルサにカタルーニャ独立運動の影
スペインで「クラブ以上の存在」と呼ばれる名門サッカーチームFCバルセロナはカタルーニャ独立の機運と無縁ではいられない
キックオフ 「カタルーニャの日」である9月11日、バルセロナでは独立を求める大規模なデモが行われた Albert Gea-Reuters
カタルーニャ自治州の独立の機運によって巻き起こったスペインの危機が、世界屈指の名門サッカークラブの将来に不穏な影を投げ掛けている。そのクラブとは、スペイン北東部カタルーニャ州の州都バルセロナを本拠地とするFCバルセロナ。世界中のファンは愛を込めて「バルサ」と呼ぶ。
9月11日は、18世紀のスペイン軍に対する敗北を思い起こす「ラ・ディアダ(カタルーニャの日)」だった。スペインからの独立を求めて150万人がデモを行ったが、そこにはバルサのサンドロ・ロセイ会長の姿もあった。政党指導者も含め、デモ参加者の多くはスペインからの完全な分離独立を求めた。
これまでロセイは、クラブを独立運動に関係させることは避けてきた。しかし個人としてデモに参加したロセイは、バルサはこれ以上、政治的中立を維持できないと思い知った。「バルサはカタルーニャの多数派の決定に従う」。ラ・ディアダの後の試合中、一部のファンが独立を求める声を上げたとき、ロセイはファンに向けて語った。
このように政治に取り込まれるのは、自らを地域の政治的・文化的なアイデンティティーの象徴と自負するサッカークラブにとっては致し方ないことではある。バルサが20世紀初頭に設立された時期も、スペイン帝国の崩壊と、ヨーロッパの最も進取的な都市を目指すバルセロナの再生に重なっていた。バルサの成長はカタルーニャ人の誇りであり続けた。
1920年代のプリモ・デ・リベラ将軍の独裁、そして、フランシスコ・フランコ将軍による独裁の時代を通じて、バルサはカタルーニャの「愛国心」を象徴するものになった。バルサの歴史は民主主義や公益と絡み合いながら、一方にはジュゼップ・スニョル会長がフランコの軍隊に暗殺されるという血塗られた側面もある。
バルサのファンは、選手としてクラブで活躍し、後に監督を務めたオランダ人ヨハン・クライフの逸話が大好きだ。クライフはフランコに逆らう形で、長男をジョルディと名付けた。カタルーニャの守護聖人の名だ。
「クラブ以上の存在」というバルサのスローガンは、独自の文化を誇るカタルーニャ社会でのクラブの地位だけでなく、党派的、国家主義的な利害を超えた価値を体現する存在であることも示している。しかしスペインが現代の民主主義国として発展する歴史の節目節目にバルサが何らかの役割を果たすのは、やはり民族主義の力だ。
グローバルなブランド
75年にフランコが死ぬと、バルサの首脳陣は追放されたカタルーニャ民族主義の指導者ジュゼップ・タラデーリャスに会い、新たに設立されたカタルーニャ地方政府の閣僚就任を要請した。77年、カタルーニャに戻ったタラデーリャスはバルサのホームスタジアム、カンプノウで大歓迎を受けた。
「すべてのカタルーニャ人が戦った末に、私たちはついに自由を手にした」と、タラデーリャスは言った。「皆さんがカタルーニャ主義への忠誠を忘れず、このカタルーニャを永遠に豊かに、強く、自由にすることを信じている。バルサ万歳! カタルーニャ万歳!」。この演説は今も大半のファンがそらんじることができる。