新イスラエル映画の迫力度
The Conflict Onscreen
公開間近の『戦場でワルツを』やカンヌで話題の『アジャミ』など、アラブ社会との対立を描く新感覚の秀作が急増中
タッ、タッ、タッ、タッ......。早朝のテルアビブ。まだ人影もない裁判所近くを、1人のアラブ人少年が息を切らせて走っている。貧困地区アジャミに住むオマルは、たったいま人が殺されるのを見て、命からがら逃げるところだ。
その光景はオマルの住む世界を象徴していた。目の前に裁判所があっても、正義は存在しない。パニック状態の少年は自分の運命から逃れようと必死で、ひたすら走り続ける。
オマルの脳裏に、弟の穏やかな声が響く。「目を閉じて、リラックスして」。角を曲がったところで足が滑り、オマルは歩道に激しく倒れ込む。「3つ数えたら目を開けてね。そうしたらもう、別な場所にいるよ」
だが中東で憎悪と暴力、そして抑圧という現実から逃れることはできない。麻薬取引をしくじったオマルは、ようやく逃走用の車にたどり着くが、鍵がかかっていて開かない。罠だったのだ。
「1、2、3。目を開けて!」と弟の声が言う。イスラエルから届いた衝撃の映画『アジャミ』は、重苦しい調子でラストへと向かう。
やはりイスラエル映画の『レバノン』は、違う種類の罠を描く。82年6月、イスラエルがレバノンに侵攻した日の朝のこと。初々しい顔のイスラエル兵が戦車に乗り込み、ハッチを閉じる。以後24時間(そして映画の90分間)、外から完全に遮断された世界が始まる。
兵士も観客も、密室恐怖症になりそうなくらい狭い戦車の中から逃げ出せない。そこは黒光りする油と金属と冷たい恐怖の世界だ。砲塔が回るときに出す不快な音は、映画が終わった後も耳にこびり付いて離れない。
映画が自らを見詰め直す手段に
これらの作品は、今のイスラエルで映画が自らを見詰め直し、モラルを問う上で重要な手段となっていることの証しだ。
「10年ほど前まで、イスラエル映画はマイナーな存在だった」と語るのは、ハーレツ紙の映画評論家のウリ・クラインだ。「今の映画はイスラエル文化の中心に位置し、多様性あふれる社会が自らを振り返る手段となっている」
映画が社会的な表現手段という地位を確立すると同時に、イスラエルでは映画学校が次々に設立され、若い作り手に技術や業界全般を学ぶ場を提供している。カンヌ監督週間の芸術監督であるフレデリック・ボワイエは、イスラエル映画を「新鮮で誠実で、極めてプロフェッショナル」と評価する。
『アジャミ』と『レバノン』以前から、イスラエル映画は芸術作品として国内外の称賛(と政治的批判)を浴びてきた。
『アジャミ』は今年のカンヌ監督週間で高い評価を受け、来年2月の米アカデミー賞外国語映画賞に出品されることも決まっている。『レバノン』は9月のベネチア国際映画祭で、最高賞である金獅子賞を受賞した。
どちらもイスラエル礼賛映画ではない。だが9月のトロント国際映画祭では、イスラエルのイメージアップを図り、ガザ占領から世界の目をそらすための作品だと批判するデモが起きた。それでも『アジャミ』のスカンダー・コプティ共同監督は、デモに理解を示す。「(デモは)スクリーンに映っていないイスラエルの現実を、映画を見た人たちに考えさせた」
『アジャミ』と『レバノン』はいずれもアラブ世界とイスラエルの紛争をテーマにした最近の映画に倣って、製作資金の一部を外国から調達した。「こうした映画は存在するだけで問題提起になるから重要だ」と、クラインは言う。
紛争が現在進行形である以上、「敵側」の視点は無視しがちだ。ましてや理解するなど難しい。だからパレスチナ人監督とイスラエル人プロデューサーによる05年の映画『パラダイス・ナウ』は、自爆テロ犯を同情的に描いたとして大論争を巻き起こした。
アニメ映画『戦場でワルツを』のテーマは、82年のイスラエル軍によるレバノン侵攻。08年の米ゴールデングローブ賞最優秀外国語映画賞を受賞した(日本では11月28日公開予定)。
『レバノン』は、やはり82年のレバノン侵攻をさらに深く掘り下げた作品で、イスラエル兵の苦しみばかりに焦点が当てられてきた戦争に新しい見方を示した。
そこに英雄はいない。若くて経験の乏しいイスラエル兵4人は、生き延びるために戦うにすぎない。狭い戦車の中にいる彼らは、戦車の外の人々の苦しみにはまったくといっていいほど気付かない。ただ射撃手の照準器越しに、悲惨な光景が垣間見られるだけだ。
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