美学者が東工大生に「偶然の価値」を伝える理由──伊藤亜紗の「いわく言い難いもの」を言葉にしていくプロセスとは
伊藤:そもそもこの研究は、スポーツを観戦するときにプレーを「目で見て楽しむもの」ということにしてしまっているために、本当は、触覚や聴覚も使っているのに、大事な情報が実はキャッチできてないのではないか──という問題意識から始まったものです。
「バーチャル」という言葉も、ハイテクな何か、という固定的なイメージから解放されたら、キッチンペーパーもVRのツールになる。そこまで掘り下げられたら、発想の幅がうんと広がります。
社会に向けて工学的な開発をすすめる時、今話したような発想の柔軟さがとても重要で、そういう意味では、発想を活性化させられることが、最もリベラルアーツなのかもしれないですね。
偶然の価値を伝える
伊藤:美学を研究するわたしが工業大学にいる役割の一つは、学生たちに、「偶然の価値」を知ってもらうことだと思っています。
この大学に着任したときに、「システム」という名のつく学科がたくさんあって、学生たちも枠組みや論理、データが示される話を好むことに驚きました。
例えば誰かが待ち合わせの時間に遅れるのはシステムの問題として考える。3回遅刻したらメンバーから外すといったルールで解決しようとする。「そういう問題をきちんとコントロールできる仕組みを作るべきだ」という考えがあるからなのでしょう。
それと、自分をコントロールできることがよい、という価値観の中で育って自分をコントロールする気持ちよさのようなものを身につけてきている。「今日はゲームしたいけどガマンガマン、勉強する」といったような。それも大事ですが、ゲームも大事だったりしませんか。
そのせいなのか、わたしの芸術の授業で作品を見せて「これどう思う?」と聞いても、思ったことをスッと言えない学生が少なくありません。今思っていることを率直に言葉に出すことを強く警戒し、場の空気を読んで自分の発言をコントロールしようとする。
──「いいことを言わないと」みたいな?
伊藤:そうです。文脈や教員の表情から「たぶんこういう答えを言ったほうがいい」と。そういうマインドにどうしてもなってしまう。
コントロールは社会をスムーズに回していくために必要ですが、人間関係や組織にガッチリと持ち込まれると苦しいですよね。その人が潜在的に持っている可能性をどんどん消していく方向に行きがちだと思うんです。
対して偶然というのは、隙を持っておくことだと思っています。組織でも、ちょっと隙があると、その人の潜在的な力が発揮されることがある。そういうものが大事なのでは、と思うんです。
それに、この世界では偶然起きてしまうことの方がずっと多い。そもそも人間の身体は偶然の塊ですしね。自分で「この顔がいい」「この性別がいい」と望んだわけではない。その偶然を背負って生きていくのが、身体を持って生きていくということで。
コントロールできないということへの畏れは、どこかで持っておかないと、何でもコントロールできてしまうと勘違いしてしまいます。
こういう授業で、世間的にはとてもメジャーなのに、東工大生にはなぜかものすごく人気のない絵画が存在します。たとえば、1940年代から50年代にかけて活躍した抽象表現主義の画家ジャクソン・ポロックの絵画です。
ポロックは下絵を準備せず、絵の具を跳ね飛ばして描く「ドリッピング」という技法を使いました。その絵を見ると、一部の東工大生はゾワゾワと生理的嫌悪をもよおすようです。でも、嫌悪感というのは教育のチャンスでもある。自分の見方を変えるきっかけになりうるんです。なぜ、ドリッピングの技法を使った絵が嫌いなのか、学生に聞いてみる。すると「再現性がないですよ、この絵。ただの偶然じゃないですか」という意見が多く出てくるんですね。
理系の学問にとってはたしかに、誰がいつどこでやっても同じ結果が出る、ということが一番重要になってくる。科学の「法則」とはそういうものですし、工学の一番の欲望は、「制御」だといってもいいでしょう。ポロックの絵は、出来上がりを制御できない(と学生は感じる)。それが嫌悪感につながっているのかもしれません。
でもこここそ、理工系の東工大生にひとつの学びを与えるチャンスです。現実の世界は制御がすべてではありません。工学者として完全な制御を目指していたとしても、災害や大規模な事故などで制御できない事態は起こりうる。現実の世界には、制御の外の領域があり、人間も機械もすべてをコントロールできるわけではない。芸術を通して、そんな事実を彼らに教えるのが、東工大における芸術の教員としての役割だと思うのです。
(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院News 『芸術作品で偶然の価値を学び"制御第一"の思考から自由になる』より)