最新記事

インタビュー

美学者が東工大生に「偶然の価値」を伝える理由──伊藤亜紗の「いわく言い難いもの」を言葉にしていくプロセスとは

2020年8月28日(金)16時30分
Torus(トーラス)by ABEJA

伊藤:そもそもこの研究は、スポーツを観戦するときにプレーを「目で見て楽しむもの」ということにしてしまっているために、本当は、触覚や聴覚も使っているのに、大事な情報が実はキャッチできてないのではないか──という問題意識から始まったものです。

「バーチャル」という言葉も、ハイテクな何か、という固定的なイメージから解放されたら、キッチンペーパーもVRのツールになる。そこまで掘り下げられたら、発想の幅がうんと広がります。

社会に向けて工学的な開発をすすめる時、今話したような発想の柔軟さがとても重要で、そういう意味では、発想を活性化させられることが、最もリベラルアーツなのかもしれないですね。

Torus_Ito5.jpg

偶然の価値を伝える

伊藤:美学を研究するわたしが工業大学にいる役割の一つは、学生たちに、「偶然の価値」を知ってもらうことだと思っています。

この大学に着任したときに、「システム」という名のつく学科がたくさんあって、学生たちも枠組みや論理、データが示される話を好むことに驚きました。

例えば誰かが待ち合わせの時間に遅れるのはシステムの問題として考える。3回遅刻したらメンバーから外すといったルールで解決しようとする。「そういう問題をきちんとコントロールできる仕組みを作るべきだ」という考えがあるからなのでしょう。

それと、自分をコントロールできることがよい、という価値観の中で育って自分をコントロールする気持ちよさのようなものを身につけてきている。「今日はゲームしたいけどガマンガマン、勉強する」といったような。それも大事ですが、ゲームも大事だったりしませんか。

そのせいなのか、わたしの芸術の授業で作品を見せて「これどう思う?」と聞いても、思ったことをスッと言えない学生が少なくありません。今思っていることを率直に言葉に出すことを強く警戒し、場の空気を読んで自分の発言をコントロールしようとする。

──「いいことを言わないと」みたいな?

伊藤:そうです。文脈や教員の表情から「たぶんこういう答えを言ったほうがいい」と。そういうマインドにどうしてもなってしまう。

コントロールは社会をスムーズに回していくために必要ですが、人間関係や組織にガッチリと持ち込まれると苦しいですよね。その人が潜在的に持っている可能性をどんどん消していく方向に行きがちだと思うんです。

対して偶然というのは、隙を持っておくことだと思っています。組織でも、ちょっと隙があると、その人の潜在的な力が発揮されることがある。そういうものが大事なのでは、と思うんです。

それに、この世界では偶然起きてしまうことの方がずっと多い。そもそも人間の身体は偶然の塊ですしね。自分で「この顔がいい」「この性別がいい」と望んだわけではない。その偶然を背負って生きていくのが、身体を持って生きていくということで。

コントロールできないということへの畏れは、どこかで持っておかないと、何でもコントロールできてしまうと勘違いしてしまいます。


こういう授業で、世間的にはとてもメジャーなのに、東工大生にはなぜかものすごく人気のない絵画が存在します。たとえば、1940年代から50年代にかけて活躍した抽象表現主義の画家ジャクソン・ポロックの絵画です。

ポロックは下絵を準備せず、絵の具を跳ね飛ばして描く「ドリッピング」という技法を使いました。その絵を見ると、一部の東工大生はゾワゾワと生理的嫌悪をもよおすようです。でも、嫌悪感というのは教育のチャンスでもある。自分の見方を変えるきっかけになりうるんです。なぜ、ドリッピングの技法を使った絵が嫌いなのか、学生に聞いてみる。すると「再現性がないですよ、この絵。ただの偶然じゃないですか」という意見が多く出てくるんですね。

理系の学問にとってはたしかに、誰がいつどこでやっても同じ結果が出る、ということが一番重要になってくる。科学の「法則」とはそういうものですし、工学の一番の欲望は、「制御」だといってもいいでしょう。ポロックの絵は、出来上がりを制御できない(と学生は感じる)。それが嫌悪感につながっているのかもしれません。

でもこここそ、理工系の東工大生にひとつの学びを与えるチャンスです。現実の世界は制御がすべてではありません。工学者として完全な制御を目指していたとしても、災害や大規模な事故などで制御できない事態は起こりうる。現実の世界には、制御の外の領域があり、人間も機械もすべてをコントロールできるわけではない。芸術を通して、そんな事実を彼らに教えるのが、東工大における芸術の教員としての役割だと思うのです。
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院News 『芸術作品で偶然の価値を学び"制御第一"の思考から自由になる』より)

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

外貨準備の運用担当者、FRBの独立性に懸念=UBS

ワールド

サウジ非石油部門PMI、6月は57.2 3カ月ぶり

ワールド

ロシア失業率、5月は過去最低の2.2% 予想下回る

ビジネス

日鉄、劣後ローンで8000億円調達 買収のつなぎ融
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプvsイラン
特集:トランプvsイラン
2025年7月 8日号(7/ 1発売)

「平和主義者」のはずの大統領がなぜ? 核施設への電撃攻撃で中東と世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 2
    ワニに襲われた直後の「現場映像」に緊張走る...捜索隊が発見した「衝撃の痕跡」
  • 3
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 4
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコ…
  • 5
    米軍が「米本土への前例なき脅威」と呼ぶ中国「ロケ…
  • 6
    吉野家がぶちあげた「ラーメンで世界一」は茨の道だ…
  • 7
    熱中症対策の決定打が、どうして日本では普及しない…
  • 8
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 9
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 10
    「22歳のド素人」がテロ対策トップに...アメリカが「…
  • 1
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 2
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 3
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門家が語る戦略爆撃機の「内側」と「実力」
  • 4
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 5
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 6
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 7
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 8
    サブリナ・カーペンター、扇情的な衣装で「男性に奉…
  • 9
    定年後に「やらなくていいこと」5選──お金・人間関係…
  • 10
    韓国が「養子輸出大国だった」という不都合すぎる事…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 6
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 7
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 8
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 9
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中