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著名人・スターの軌跡
エドワード・ケネディ(アメリカ/上院議員)
だがカーターを党の大統領候補に正式に指名した80年の民主党全国大会では、「夢は決して死なない」という感動的なスピーチをして聴衆を魅了。その場の主役の座をカーターから奪ってしまった。
この大統領選への挑戦を機に、自分が大統領になる可能性はないとはっきり悟ったおかげで、ようやく本当に得意なことに打ち込めるという解放感を覚えた。弱者を救うための法律を議会で成立に導く手腕こそ、政治家としてとりわけ秀でた点だった。レーガン政権時代にはリベラル派の立場で保守派と激しく対立したが、舞台裏ではリベラルな法案を通すために共和党議員との連携を打ち立てた。
病に倒れた後も貫いた情熱
しかし、過去の亡霊が消えたわけではなかった。いや、所詮はエドワードも軽率な金持ちだったということなのかもしれない。女癖の悪さは、簡単には収まらなかった。60年代後半には、妻ジョーンとの夫婦関係は形だけのものになっていた。チャパキディックで死亡したコペクニの葬儀に出席しなければならなかったことは、ジョーンにとって耐え難い苦痛だった。妊娠していたジョーンは、おなかの子供を流産した。3度続けての流産だった。数年後、夫婦は離婚した。
当時、ワシントン・マンスリー誌に掲載された「ケネディの女性問題、女性たちのケネディ問題」と題した記事で筆者のスザンナ・レサードはこう書いた。「(エドワードは)深刻な発達障害だ。ナルシシズムに酔い、赤ん坊じみた巨大な自尊心を抱えている」。むしろ巨大な悲しみを抱えていて、それを打ち消すためにセックスとアルコールに走ったというほうが正しいのかもしれないが。
上院議員としては、常にまじめに仕事に取り組んだ。毎晩、資料のどっさり詰まった袋を家に持ち帰って政策の勉強に励んでいた。
兄たちの死後は、ケネディ一族の温かい家長の役割を務めたが、一族の若い世代の立派なお手本にはなり得なかった。ケネディ一族の男たちの遊び好きは有名で、ついにそれが悲惨な結果を招く。
91年春のある夜、エドワードと息子のパトリック、甥のウィリアム・ケネディ・スミスは、ケネディ家の別宅があるフロリダ州パームビーチでバーをはしごしていた。そのときバーで知り合った女性をレイプしたとして、ウィリアムが刑事告発された。最終的には無罪になったが、裁判の経過はメディアで派手に取り上げられて、エドワードには「老いた放蕩者」というイメージが付いた。
この後は、酒量を減らし、贅肉も減らした。上院での働きぶりも相変わらず見事だった。議会で党派対立が激化した時代にあって共和党議員と協力を築くコツを心得ていて、障害者支援や教育、医療などの分野で次々と弱者保護の法律を成立させていった。
特に熱心に主張していたのが、国民皆保険制度の導入だった。議員がけがをしたり病気になったりすれば議会の医務室で手当てしてもらえるのに、どうして選挙民に同じ機会が与えられないのか----ちゃめっ気たっぷりにそう言って、同僚議員たちを恥じ入らせた。
国民皆保険制度導入という夢が実現しないうちに、自身が悪性の脳腫瘍と診断されたが、それでも悲願の実現に向けて精力的に活動することはやめなかった。重い病を患いながらも、陽気な態度を失わず、最後までやり抜くという固い決意を示し続けた。
08年12月、母校のハーバード大学から名誉学位を授与されることになり、その式典が行われた。ヨーヨー・マがチェロを演奏し、55年のエール大学とのフットボールの試合でエドワードがタッチダウンを成功させた場面を映した映像が上映された(これは父ジョセフに目に留めてもらえた数少ない「業績」の1つだった)。
上院司法委員会でエドワードの首席法律顧問を務めた経験を持つスティーブン・ブライヤー連邦最高裁判事がスピーチし、国のために奉仕した長年の貢献をたたえた。そして最後に、バンドがハーバード大学のスポーツの応援歌「ハーバードの1万人の男たち」を演奏するなか、92年に再婚した妻のビクトリアに優しく背中を押されてエドワードは舞台を降りた。
最後まで観衆に手を振り、親指を立てて見せる姿は、死期が迫っている人物にはまったく見えなかった。むしろ、やっと手にした自由を満喫しているようだった。
[2009年9月 9日号掲載]