最新記事

石井健雄(ヨーデル歌手)

世界が尊敬する日本人

国境と文化の壁を越えて輝く
天才・鬼才・異才

2009.04.24

ニューストピックス

石井健雄(ヨーデル歌手)

アルプスにこだまする歌声

2009年4月24日(金)18時16分
ハンナ・クリーバー(ライトインウィンクル)

Rubin Records, Germany

 暗いステージにスポットライトが当たり、客席のドイツ人が沸く。黒い着物を着た白髪の日本人男性が、口を大きく開けてにこやかに笑いながら登場した。

 大きな拍手に包まれ、男性は日本語で歌いはじめた。着物をさっと脱ぐと、下はバイエルン地方の民族衣装だ。サスペンダーつきの革の半ズボンにウールのハイソックス、シャツの上にチョッキ。

 ヨーデルの舞台は1時間以上続いた。アルペン民謡を歌い、客席とおしゃべりして、スイス、オーストリア、ドイツのスタイルを歌い分けた。アメリカのカウボーイのヨーデルも披露した。

 石井健雄(59)はヨーデル界で最も忙しく、最も成功した歌手の一人だ。年間100以上の舞台に立ち、民謡の大手レーベルからCDを出している。権威ある賞も受賞し、日本人がドイツ民謡を歌いこなせるのかという疑問を吹き飛ばした。

 だが、石井は今も地元のホールで観光客を歓迎するイベントの舞台に立つ。ここはそういう街であり、彼はそういう男だ。

 バイエルンの伝統が残るライトインウィンクルの街を、石井は愛してやまない。バルコニーに花があふれる美しい家、アルプスの草原、雪をいただいた山頂。

 「夢のような暮らしだ」と石井は言う。81年にこの街へ来て、現在は昔ながらの家に妻ヘンリエッテと4人の息子と暮らす。「健雄を見るためだけに街へ来る人もいる」と、観光局のハンス・ペーター・ウィンマーは言う。

 石井は子供のころ故郷の東京で初めてヨーデルを聞いた。15歳から自分でも歌うようになった。

 「初めて聞いたときは、日本人に歌えるとは思わなかった。アメリカのカウボーイがヨーデルを歌っているレコードがあって、それを聴きながら2カ月間練習した」

 時代は60年代半ば。ティーンエージャーのほとんどがビートルズに夢中になるなかで、石井と数人の仲間はヨーデルの繊細さのとりこになり、輸入レコード店に通った。東京周辺の山に登って歌の練習もした。「革の半ズボンにシャツ、サスペンダーといった民族衣装も自分たちで作った」

「日本人でも関係ない」

 26歳のとき、石井は愛する音楽を生んだ山並みを自分の目で見ようと決心した。父親の経営する麺乾燥機の製造工場で働いていた彼は、ドイツで機械の勉強をしたいと両親に話した。「母は本当の理由に気がついていただろう」

 バイエルンに半年滞在した後、スイスのチューリヒに行った。地元の酒場で歌い、ヨーデルで初めて金を稼いだ。

 そのころには、もう日本には帰らないと決めていた。やがてヨーデルと民謡の大物歌手マリア・ヘルビッヒと知り合い、ドイツに誘われた。現在は常に数カ月先まで仕事が埋まっている。

 「20年前にはプロの歌手がたくさんいて、そのうち10人くらいは成功した」と、石井は言う。「でも、その数はどんどん減り、今ではマリア・ヘルビッヒと彼女の娘、それに私ぐらいしかいないだろう」

 石井はヨーデルの伝統を守ろうと懸命だ。たとえば、ラップなど流行の音楽にヨーデルのサウンドを使ってもらえるかもしれない。

 順風満帆では決してない。「残念ながら、異国の動物を見るような目で私を見る人もいる」と、石井は言う。「きっと国のプライドに関係があるのだろう。私は成功してきたが、それでもガラスの天井ともいえる壁がある」

 地元での舞台が終わると、石井はサインを求めるファンに囲まれた。元警官のハラルト・マイヤーはハンブルクから来た。「テレビで3、4回見たけれど、生は初めてだ。本当に感動した。石井が日本人でも関係ない。日本の民謡がどんなものかは知らないが、彼の歌うドイツの民謡は最高だ」

 マイヤーはうれしそうに笑い、夜の通りを歩いて行った。サイン入りのポストカードは妻への土産にするよと言いながら。

[2006年10月18日号掲載]

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

ドルは上昇へ、債券市場の小さな問題は解決=トランプ

ビジネス

トランプ氏、スマホ・PCなど電子機器の関税を免除 

ワールド

アングル:中国にも「働き方改革」の兆し、長時間労働

ワールド

グリーンランドに「フリーダムシティ」構想、米ハイテ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプ関税大戦争
特集:トランプ関税大戦争
2025年4月15日号(4/ 8発売)

同盟国も敵対国もお構いなし。トランプ版「ガイアツ」は世界恐慌を招くのか

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    凍える夜、ひとりで女性の家に現れた犬...見えた「助けを求める目」とその結末
  • 2
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最強” になる「超短い一言」
  • 3
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止するための戦い...膨れ上がった「腐敗」の実態
  • 4
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 5
    車にひかれ怯えていた保護犬が、ついに心を開いた瞬…
  • 6
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 7
    米ステルス戦闘機とロシア軍用機2機が「超近接飛行」…
  • 8
    シャーロット王女と「親友」の絶妙な距離感が話題に.…
  • 9
    公園でひとり歩いていた老犬...毛に残された「ピンク…
  • 10
    コメ不足なのに「減反」をやめようとしない理由...政治…
  • 1
    公園でひとり歩いていた老犬...毛に残された「ピンク色」に心打たれる人続出
  • 2
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 3
    ひとりで海にいた犬...首輪に書かれた「ひと言」に世界が感動
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    凍える夜、ひとりで女性の家に現れた犬...見えた「助…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 9
    「やっぱり忘れてなかった」6カ月ぶりの再会に、犬が…
  • 10
    「吐きそうになった...」高速列車で前席のカップルが…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    公園でひとり歩いていた老犬...毛に残された「ピンク色」に心打たれる人続出
  • 3
    ひとりで海にいた犬...首輪に書かれた「ひと言」に世界が感動
  • 4
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛…
  • 5
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の…
  • 6
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 7
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 8
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 9
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中