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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
ポーランドとショパンをめぐる2つの疑問
それにしても、ポーランドのカチンスキ大統領夫妻の乗った専用機が墜落したというニュースには驚きました。しかも「カチンの森」虐殺事件に関してロシアが責任を認めて謝罪するという歴史的な事件の、その慰霊祭へ向かう途上というのですから、何という悲劇でしょう。私は一瞬、ポーランドにおける親露路線と親米路線の葛藤が背景にあるのではとか、「カチンの森」の歴史認識で謝罪を快く思わないロシアの勢力の利害はどうか、などと不謹慎なことを考えましたが、状況から見るとどう考えても不運な事故としか言えないようです。
それにしても、この事故は改めてポーランドという国が、長い間ドイツとロシアの間に挟まれて苦悩してきた歴史、そして現在も米欧とロシアの利害の狭間に立っているという「小国の苦悩」を背負った国というイメージを思い起こさせます。その苦悩に対して同情的になるということは、このポーランドに典型的な「被害国のナショナリズム」を認めることにつながります。そうは言っても、ナショナリズムは所詮ナショナリズムです。それは排外や独善を伴うものであり、インターナショナリズムやグローバリズムとは両立の難しい概念ですし、少なくとも国家と国家の間における対立エネルギーを減らすことが良いことだという価値観とも矛盾します。
ですが、このポーランドのような「被害国のナショナリズム」はどうしても多くの部外者の同情を集めてしまいます。特にこの「カチンの森」虐殺事件のような事件を思い起こせば、正に被害を受けた国が民族的な義憤にかられて「被害者の正義」を主張することは全く問題がないようにも思えるのです。例えば、日本と中国に挟まれた歴史を持つ韓国の人々が、このポーランドの歴史に同情的であるというのも、容易に理解できる話です。
では、このような「被害国のナショナリズム」は手放しで善玉扱いしていいのでしょうか? 手放しで、ということになると私は疑問を感じてしまいます。そのナショナリズムが暴走しないよう何らかの批判的な観点は残されるべきだというのが1つあります。また、大国の暴力的なナショナリズムというのも力への過信や驕りから来るというよりも、こちらも同じような被害者意識に突き動かされているであって(ナチズム、アメリカの草の根保守、反欧米思想としての大東亜共栄圏など)、被害者意識が暴力に転ずるメカニズムとしては同様に批判されるべき、そんなことも思うのです。
勿論、大国のナショナリズムというのは、国内問題としての格差の被害者である庶民感情を敵愾心へと排出させる「持てる側の狡知」が事態を悪化させることが多いのに対して、小国のナショナリズムはそのような「二重性からダークサイドへ落ちる危険」が少ないという指摘はできるでしょう。だからと言って、全面的に正義とするのが正しいのか、とにかく私には答えはないのです。
ポーランドといえば、作曲家のフレデリック・ショパンが有名で、このショパンという人も1830年の「ワルシャワ蜂起事件」を契機に亡命した「愛国者」という政治性が、芸術の背景にあるのはよく知られています。思えば、今年はそのショパンの生誕200周年の記念の年であり、またポーランドの国を挙げての新人ピアニストの祭典、ショパンコンクールの記念大会も行われます。第2の疑問というのは、このショパンの政治性についてです。ショパンの芸術を理解する上で、どうしてもこの「愛国の義憤」というのは避けて通れないようにも思うのですが、そのことと、この作曲家のピアノ曲の面白さをどう結びつけて考えたら良いのでしょう?
昔から、漠然とですが、愛国者の熱情と亡命者の郷愁がこの作曲家の持つロマンチシズムの背景にある、そんな理解がされてきています。このあたりも私には良く分かりません。最近の才能のあるピアニストは、そうしたセンチメンタルな人生のドラマとは無縁のもっと純音楽的なアプローチで、この天才的なピアノ音楽作家の作品に向きあっています。打楽器の延長の「叩く楽器」でありながら、メロディーも歌えてしまう音域の広さを持つピアノという楽器を使うにあたって、「歌」をワルツやマズルカの舞踏リズムに乗せてしまうという曲芸的な作曲がされている、その面白さは楽譜そのものが語ることで十分だ、才能のある演奏家にはそう思えるに違いなく、仮にそうであればそれで結構ではないか、そんな風にも思えるのです。
ですが、ショパンの音楽が歌であり同時に舞踏であるということは、様々なテンポの揺れや歌の息遣い、陰影の濃い強弱や緩急といった表現を要求します。そうした複雑な表現を「楽譜にピタっと」くるまで彫琢して自分の解釈を作るには、1つの手がかりとして、愛国の情、亡命者の憂愁といった印象論的な理解がインスピレーションになることもあるようです。
例えば、最近評価の高まってきた日系ドイツ人の若手ピアニスト、アリス・紗良・オットさんが録音したショパンのワルツ集のCDについてのプロモーションビデオを観る機会があったのですが、ドイツの会社らしい「やんちゃ」な企画で、オットさんは、グダニスクの「連帯」運動の舞台になった造船所にピアノを持ち込んで、ジーンズ姿でショパンのワルツを弾いているのです。
日本では「日本人の血を引くお嬢さんピアニスト」というキャラに仕立てられているオットさんですが、インターナショナルなプロモーションでは、アジア系の知的で自己主張のある女性という異なったキャラになっている、その違いはともかく、反独裁運動の舞台になった造船所で、その事件とショパンの反骨に思いを寄せながらワルツを弾いているというオットさんの発言には、何の嫌味もありませんでした。若い音楽家が、そうした「ミーハーな歴史や思想への興味」を重ねながらショパンを弾くのは、仮にそうした思想的なインスピレーションの結果、良い解釈に突き当たって「楽譜の要求している音」に辿り着くきっかけになれば、それも良いじゃないか、そんな風に思えたのです。ちなみに、オットさんの「ワルツ」は隅々まで表現の意図が設計し尽くされた一級品でした。
そういえば、ショパンの生誕200年というのは、日本では恒例になったGWの「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン『熱狂の日』音楽祭」でもテーマに取り上げられるそうです。東京や金沢では、私の敬愛してやまないブリジット・エンゲラー女史とか、若手のリーズ・ド・ラサールさんなど超一流のピアニストも登場するようで、何とも羨ましい限りですが、それはともかく、小国の悲哀と、激情の歴史をショパンの人生に重ねながらその音楽を理解するというアプローチも、結果的に舞踏と歌の織りなす光と影の魅力に行き着く通過点としては、全否定する必要はないのかもしれません。第1の疑問の方は答えの出ない重苦しさに耐えなくてはと思いますが、第2の方はそんな理解でどうでしょうか?
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