イタリアの緑のこころ
イタリア語と日本語のあいだで
ゼロから始める日本語の授業が始まって、まだ2週間目ではありますが、予定では11月に教えることになっている「...月...日」と月日を表す表現や、「晴れ」という天気を表す言葉を、ホワイトボードに書き始めました。毎日目に触れてインプットが頻繁になるほど、記憶もしやすくなるためです。
金曜の朝、朝焼けの空高くに見えた月があまりにも美しかったので、これはいい機会だと、授業前に教室にいた生徒とテラスに出て、「話し手からも聞き手からも遠いものを指す指示代名詞、あれ」と「月」の復習をしようと、月を指さして、「あれは月です。」と言ってみました。すぐに分かるかなあと思ったら、少しとまどっているように見えたので、確認すると、「あれ」を「晴れ」と聞いて理解してしまったために、意味が理解できずに困っていたようです。
hという子音が存在せず、hannoとanno、haiとaiの発音がまったく同じであるイタリア語を母語とするイタリアの人は、「英語の勉強のおかげでわたしはhが発音できます」と言う人であっても、こんなふうにhが聞き取れず、勘違いしてしまう場合が少なくありません。同様に、「せんせい」や「にじゅう」という言葉を書いてみたら、語末の「い」や「う」が欠けてしまうことが時にあるのも、イタリア語では、母音の長さには弁別機能がないため、つまり、母音が長かろうと短かろうと、意味の判別には問題がないためであり、さらに、イタリア北部では、二重子音もことごとく単子音として発音されてしまいがちであるために、北イタリア出身の人には、二重子音を聞き分けること、引いてはそういう音を含む言葉を正しく記憶して書くことも難しく、「なんにん」の最初の「ん」が欠けてしまったり、促音の小さい「つ」が欠けてしまったりしがちです。
ちょうどわたしたち日本人が、母語の音韻体系では意味の識別に関わらないbとv、rとlの発音の違いを聞き分けられず、結果としてきちんと覚えられなかったり、間違って書いてしまったり、勘違いしたりするのと対照的な間違いです。アメリカに長く暮らす日本からの移民を対象とした研究で、多くの人は、rとlの違いは聞き分けることができないままであるものの、発音をし分けることができているとのことで、ですからやはり、できるだけ多く用例に触れて、音の違いが聞き取れないくても、何度も正しく書いたり、文脈から推測したりすることを通して、いつかはきっときちんと書いて、覚えられるようになることでしょう。
「こいください」と、#日本語 の授業中に、イタリア人の男子学生が言いました。
-- Naoko Ishii (@naoko_perugia) April 21, 2021
コイにも、「鯉」と「恋」があって、日本の錦鯉のことは、イタリア語でもcarpa koiと言うのですが、彼が「ください」と言いたかったのは、そのどちらでもありません。
「コーヒー」なのです。https://t.co/BFeKLK68rZ pic.twitter.com/yHi05wByq0
かつてわたしが大学院課程に通っていた当時のシエナ外国人大学の学長は、「イタリア語の海外における学習者数は、海外に拠点を持つイタリアの多国籍企業とその現地の従業員数に比例する」と、イタリア企業の海外進出と現地におけるイタリア語学習者数の増加、あるいは撤退と減少に密接な関連があることを確信し、授業中にしばしばそう語っていました。そのため授業では、一見イタリア語教育には関係がなさそうに思えたイタリアの多国籍企業や各国の経済状況に関する文書を読むことがしばしば課題となっていました。そのときわたしは、日本人のイタリア語やイタリアに対する関心は、観光や料理、ファッションなど、多岐にわたっているので、日本の場合にはそれは当てはまらないと考えていました。けれどもその後、中国の経済進出が盛んになり、アラビア語圏の諸国との関係が緊迫して、2010年には、ペルージャ外国人大学で、それまで五つあった日本語・日本文学の授業が、代わりに中国語・アラビア語に取って代わられるという危機がありました。学部の会議で、これまで日伊の大学の交換留学なども通じて、絆を深めてきた日本語は今後も存続が大切だと訴え、残念ながら、わたしは担当できなくなってしまったものの、幸い五つあったうち、二つの授業については日本語・日本文学の授業の存続が決まり、ほっとしました。
今教えている学校では、アラビア語、ペルシア語、ロシア語など、仕事のために様々な外国語を学ぶ人が多いのですが、漫画・アニメや食文化を通して、日本文化に関心を持ち、「自分も日本語が勉強したい」と言ってくれる人が大勢います。わたしが個人授業で教える生徒たちも、大半が日本文化への興味や関心から日本語を勉強する人たちであり、イタリアと日本が、今後も、経済的動向はどうあれ、互いの文化に興味と関心、好意を持ち続けていける関係にあり続けてくれることを願っています。
著者プロフィール
- 石井直子
イタリア、ペルージャ在住の日本語教師・通訳。山や湖など自然に親しみ、歩くのが好きです。高校国語教師の職を辞し、イタリアに語学留学。イタリアの大学と大学院で、外国語としてのイタリア語教育法を専攻し卒業。現在は日本語を教えるほか、商談や観光などの通訳、イタリア語の授業、記事の執筆などの仕事もしています。
ブログ:イタリア写真草子 Fotoblog da Perugia
Twitter:@naoko_perugia