日本の総選挙とアメリカ大統領選、太平洋を挟んだ2つの国の「小さな正義」を考える
When The Justice Works
裏金問題に怒った日本の有権者の「小さな正義」
まず、わが国の総選挙を振り返ってみよう。
政治学者や選挙専門家は明言していないが、選挙民の正義感があの結果を生んだ、という捉え方ができる。それは不平等や根拠のない特権意識を許さないという明確な意思だ。
平等(不平等でないこと)であることは、私たちの正義感に強く訴えかけてくる。何に関してどの程度の平等かという問題が常について回るが、今回はそうした疑問を吹き飛ばすに十分なインパクトがあったようだ。
もちろんそれが全てだと言っているのではない。投票行動を単純化することはかえって危険だ。投票行動の動機は結構複雑に入り組んでいる。正義感だけで全てを決するわけにはいかない。
ただそうは言っても、現実はよく見ておく必要がある。そして、その現実の受け止め方自体も一つの(メタ)現実となっている。
まず、これは「裏金問題」と評された。その評価自体に政治性が強いことを誰も否定しない。しかし、事実の歪曲とまでは言えない。同様に、これを単なる事実の「不記載問題」と評することも政治性を帯びるが、だからと言ってこの見立ても歪曲とまでは言えない。つまり、それは収支報告書に記載されなかった「裏金」の問題だ。
そこまでは事実だが、そこに相異なる真逆の価値観が付着している。
一方に正義感がある。その根底にあるものは平等という価値に他ならない。法律に違反すれば庶民は厳しく罰され不利益を被る。しかし、政治家諸氏は不利益どころか、のうのうとして利益を享受している。また、多額の収入があれば、市民には納税義務が発生し違反には刑罰はじめ種々の不利益が伴う。しかし、政治家諸氏はその不記載の裏金に納税義務がないという。こんな不平等(特権)が許されるだろうか。
特権的取扱いは、それを認めざるを得ないような特別な理由がある場合にのみ限定的に認められるものだ。例えば、国会議員には3つの特権(歳費特権、会期中の不逮捕特権、国会内での発言の無責任)が認められている。それぞれ歴史的背景があって合理的な理由があるからこそ、憲法で定められている。しかし、この特権はそれ以外に広げようがないし、広げてはいけない。にもかかわらず国会議員が特権的に振舞ったからこそ国民の怒りが爆発したのだ。
他方、これは単なる不記載に過ぎず、それほど強い非難を浴びるほどのことではない、という受け止め方(よく言えば価値観)がある。少なからぬ政治家諸氏がそう受け止めていたらしい。なぜなら、彼らの発言をよく聞けば、自らの行為を反省している人は意外に少なく、「世間をおさわがせしたこと」のお詫びなのだ。世間が騒いでいることの原因に思いを致すことがない。これでは何ら反省していないし謝罪もしていないに等しい。つまり、悪いとは思っていないらしいのだ。
総選挙の結果、自民党は議席を減らし、石破首相は少数与党に支えられて第2次内閣を発足させた。自民党にお灸をすえたという意味で正義が貫徹したと見るのか、自公内閣が存続したという意味で正義の問題は小さな出来事に過ぎなかったと見るかは、実は今後の政治を含む社会全体の動きに係わってくる。
裏金に係わった問題議員が当選したことによっていわゆる「禊(みそぎ)」が済んだという受け止め方をする人もいる。力が正義を凌駕すると言っているわけである。正義を力とともに置こうとするなら、忍耐強い持続力が必要だ。どうせ国民はすぐに忘れてしまうと高を括っている政治家諸氏の思惑に多少なりとも抵抗する意思があるなら、その持続力を忘れてはならない。それは小さな正義の実践だ。
それにしてもその正義は確かに小さい。早くもパワーゲームに翻弄されかかっている。だがそれは確かに存在している。処世術、利益誘導、権力欲、打算、忖度、国家百年の大計、目先の一票......。正義はこれらの激流に浮かぶ木の葉のように見えてしまうが、まだ川底に沈んではいない。また、沈むことを放置してもいけない。