「感傷的なクズ」と酷評... バンス自伝映画が暴露した「トランプ陣営に不都合」な副大統領候補の「本性」とは?
Is “Hillbilly Elegy” a Liability?
故郷を捨てたかった若者
主な舞台のオハイオでも状況は厳しい。J・Dと姉を1人で育てる看護師の母ベブ(エイミー・アダムス)は、患者の鎮痛剤を盗んで解雇される。もともとベブは運転中にJ・Dの言動に腹を立てると車を暴走させ、死んでやると脅すような破滅型だ。
祖母(グレン・クローズ)が手を差し伸べるが、彼女も生活は苦しく、激しやすい性格だ。回想シーンでは夫の暴力に耐えかねた若き日の祖母が、泥酔した夫の服に火を付ける。バンスは副大統領候補の指名受諾演説で、祖母の死後、家から19丁の銃が発見された逸話を懐かしそうに披露した。
映画はバンス家のみに脚光を当てる。寂れた工業地帯の風景をただ映すだけで、ほかの人々が地域をどう思っているかは伝えない。
伝記物の役割とは、主人公を歴史的意義のある人物か驚くべき人生を歩んだ人物、あるいは観客に普段触れる機会のない世界を見せる人物として提示することだ。バンスは3番目のタイプで、地域社会の考察を織り交ぜた自伝もそのように構想されていた。
だが映画版のバンス家は地域社会から孤立している。友達もいなければ、教会の助けもない。全世界が彼らの敵だ。
映画はJ・D少年を特異なケースとして扱う。恵まれない環境の外に目を向け逃げるだけの先見性と意志を持つのは、彼一人。アダムスとクローズは貧困層の女性をグロテスクに誇張して演じ、哀れみは呼ぶが感情移入はできない。
バンスは演説で「私の故郷のような地域社会」の人々のために戦うと、決意を表明した。だがこの映画が描くのは、そうした人々を必死で切り捨てようとする若者の物語だ。
大学院生のJ・D(ガブリエル・バッソ)は将来を決めるインターンの面接を翌朝に控え、故郷に呼び戻される。母がヘロインを過剰摂取したのだ。J・Dは複数のクレジットカードを上限まで使って更生施設を確保するが、母は入所を拒む。
「できることは何でもする。でもここにはいられない」と、彼は言い渡す。
『ヒルビリー・エレジー』は故郷の人々ではなく今のバンスが属するエリート層のための作品。描かれる貧困は、裕福なリベラルが同類向けに演出したものだ。だからこそバンスは映画評論家らリベラル派の酷評にひどく傷つき、故郷に向けた軽蔑の目を彼らにも向けるようになった。
映画を見れば、最初から故郷に思い入れがなかったことはすぐ分かる。最後のナレーションで、バンスはつぶやく。「生まれは変えられないが、未来は自分で選べる」
要するに、今も貧困の中にいる人々と彼を隔てるのは、チャンスや運の有無でも政策でもなく本人の選択。自分は貧困を抜け出したのだから誰でもできるはずで、弁解は通用しない。それがバンスの言い分なのだ。