中国の反体制派は「同期の非対称」問題を克服し、体制を転覆させられるか
THE CHINESE REVOLT ENDS?
同期の非対称は天安門事件の当時から明らかだった。あのとき、曲がりなりにも民主化運動が盛り上がったのは北京だけだった。
上海では、市の党委書記だった江沢民が巧みに民主派を抑え込んだ。それ以外の場所では大きな動きがなかった。だから北京の反乱は孤立し、やがて機関銃と戦車で蹴散らされた。
しかも、この非対称性は一段と大きくなっている。政権側はネットや全国的な交通網をフルに活用する一方、反体制派によるアクセスは簡単に規制できる。
だから1989年の民主化運動に比べると、今回の反乱はずっと初歩的な段階で息絶えようとしている。抗議活動は散発的で、都市部に限られ、まとまりを欠いていた。つまり革命には程遠い。
対照的に1911年の辛亥革命の前には、多くの省が清朝からの独立を宣言していた。清朝は領内の各地で起きる反乱に対処できず、各地に革命政府が樹立され、やがて王朝の崩壊と国民党の台頭につながった。
この歴史に鑑み、後に台湾の李登輝(リー・トンホイ、元総統、故人)は、中国は7つの独立国(チベット、新疆、内モンゴル、満州、華北、華南、そして台湾)に分割するのがいいと主張した。そうすれば政治改革が進み、社会はよくなると考えた。
しかし、このような提言をした政治家は李登輝が最初ではない。
香港デモを評価する声が
1920年には毛沢東が、もっとラジカルな計画を提唱していた。中国を27の独立した地域に分割し、それぞれが独自に革命を進めるという構想だ。とりわけ湖南省での共和国樹立にこだわっていた。
しかし翌1921年にソ連の後押しで中国共産党が創設されると、毛沢東は中国を別の形で分割することにした。ソ連共産党の指導に従い、辺境の地には「中華ソビエト共和国」を樹立し、その他の地域には「ソビエト政府」を置くこととした。
ちなみに習近平の父である習仲勲(シー・チョンシュン)は、1934年から1936年にかけて西北部で2つのソビエト政府を率いていた。おかげで毛沢東は延安に入ることができ、そこを拠点に、革命を全土に広げることができた。
つまり「分割して革命」の方式は近代中国において2度成功している。では、3度目も可能なのだろうか。