共産革命から経済大国へ──江沢民と中国の軌跡
2002年まで続いた江沢民体制下では、党幹部の大粛清はなかった。1997年に鄧小平が死去したときも、党幹部はほとんど動揺することなく統治を続けた。
この相対的な安定は幹部の腐敗を招いたが、新興の民間企業や外国投資は国内の激動に影響されずに成長・発展できた。江は政治的な謀略もさることながら、集団指導体制を確立して権限の分散を進め、党の団結と、過去に例のない政治的平穏を維持した。
異質な世界に対する関心
90年代後半には、WTO加盟をめぐる交渉が過熱するなか、江は自身最大の後援勢力である国有企業部門に対して、輸出を大幅に増やせるのだから関税の大幅引き下げを受け入れるよう、強く迫った。
しかし、そもそも国有企業には国際的な競争力がなく、輸出で稼げるのは外資系企業や新興の民間企業だけだった。それでも江は国有企業に対する補助金の増額で押し切り、2001年に念願のWTO加盟を果たした。
WTO加盟によって国有企業は苦しくなったが、中国経済全体が大いに潤ったのは間違いない。00年から19年末までの間に、中国の輸出額は2500億ドルから2兆5000億ドルへと10倍に増えた。
1人当たりの可処分所得も同じ期間に7倍以上増加し、何億もの国民、とりわけ都市住民の生活が改善された。
今にして思えば、香港の若い女性記者を叱責した2000年のエピソードも、まんざら捨てたものではない。ある意味、それは統治者・江沢民の開放性と自信を物語っているからだ。香港は既に中国の統治下に戻っていたが、彼は香港メディアの自由を尊重し、堂々と記者会見を開き、想定外の質問にも即興で答えた。この女性記者の発言には腹を立てたが、それ以上の処分や迫害はしなかった。
国内における組織化された反体制運動に対しては強権を発動したが、個々の知識人が政府の政策を批判することにはおおむね寛大だった。
外国の文化に対する造詣も深く、外国からの賓客を招いたときは得意のピアノで西洋の楽曲を弾いたものだ。リンカーン米大統領のゲティスバーグ演説を暗記していて、その一節を晩餐会などで披露することもあった。わざとらしいなどと、当時は揶揄されたものだが、西洋文化や異質な世界に対する彼の関心は本物だった。そうした真摯な姿勢は、残念ながら今の中国指導部には見られない。
江沢民時代の中国が自由で民主的だったとは言うまい。しかし今の時代に比べたら、昔はよかったと思う人が多いに違いない。指導者が開放的で、メディアや社会からの批判もある程度まで受け入れていた時代だから。