サッカー強豪国になったオーストラリア、牽引するのは難民とその2世たち
The Game Changers
だが、オーストラリアの主要メディアに黒人が登場することはめったにない。アフリカ系オーストラリア人のスポーツ選手にスポットライトが当たるようになったのも、ごく最近のことだ。
その背景には、この国の不快な移民政策の歴史がある。
1901年にイギリスから事実上の独立を果たしたとき、オーストラリアが最初に定めた法律の1つは移民制限法だった。
当時のアルフレッド・ディーキン司法長官(後に首相)は、同法が「有色人種の移民受け入れを一切禁止することを意味する」と語った。「『白人のオーストラリア』を守る政策(白豪主義)だ」
この白豪主義にようやく正式に終止符が打たれたのは、75年に人種差別禁止法が定められたときだ。
その後の移民・難民政策も寛容とは言い難かった。マビルら代表チームの選手たちは正規の難民受け入れプログラムで移住したが、密航業者などを頼って入国を試みれば、オーストラリアに定住することはほぼ不可能だ。
オーストラリア政府がボートで渡航する難民を拘束するようになったのは92年からだ。96~07年に首相を務めたジョン・ハワードは難民排除で有権者の支持をつかもうと、さらに厳しい措置を取った。
01年の総選挙を控えていた時期に、ハワード政権は難民を乗せたノルウェーの貨物船タンパ号の領海入りを禁じた。
タンパ号はインド洋で座礁した漁船に乗っていた400人余りの難民(大半がアフガニスタンから逃れてきた人たち)を救助し、オーストラリア領内の島に運ぼうとしていたのだ。ハワードが頑として受け入れなかったため、この一件は外交問題に発展。
オーストラリアとノルウェー、さらに漁船の出航地であるインドネシアの協議が紛糾するなか、最終的にニュージーランドが多くの難民を受け入れ、残りの難民は太平洋に浮かぶ島国ナウルに移送された。
タンパ号事件を教訓に、ハワードは後に「パシフィック・ソリューション」と呼ばれることになる政策を打ち出した。オーストラリアは不法入国者を自国に上陸させず、代わりにナウルとパプアニューギニアのマヌス島に収容施設を建設して、そこで難民審査を行うというものだ。
マヌス島の施設は過酷な非人道的施設として悪名高い。14年には待遇改善を求める暴動が起き、難民申請者の1人が施設職員に殺害された。