維新を躍進させた、謎の「ボリュームゾーン」の正体
A Windfall Victory
「府市分断」で育まれた土壌
典型は太田と大阪市長磯村隆文である。太田は維新構想に近い府が市を吸収する「大阪新都構想」を掲げ、磯村は府の影響力を弱め市の権限を強化する「スーパー指定都市制度」を主張した。相いれない主張だが、どちらも自民が推薦した。
地方自治の在り方という根本に関わる政策でありながら、全く異なる主張の政治家を党本部が同時に推薦し、同時に当選する。
これらの矛盾に対し、浅田らが問いただしても明確な説明はない。不満を募らせた浅田は、自身の公約にローカルパーティーを掲げる。そこに目を付けたのが、08年に自民、公明の推薦を受けて府知事に当選した橋下徹だった。
当時を知る府政担当記者が述懐する。
「浅田さんが主張していたのは、政党にも地方自治が必要というもの。府市がもっと協調しなければという課題は、幅広く共有されていた。分かりやすい敵を設定する橋下さんの手法に問題は確かにあったが、大阪に改革が必要だという主張が広がる素地をつくったのは自民だ」
演説時の浅田の言葉を借りれば、「東京に人が集中し、豊かになっている。大阪も成長できるはずなのに、失敗続き」という問題意識に対して、中央は冷淡だった。財政問題に端を発した府庁舎移転問題など、橋下と議会の対立が続くなか、ついにかつての反主流派は構想を実行に移す。
10年4月に結党した、橋下をトップとする地域政党「大阪維新の会」である。表看板は橋下だが、キーパーソンは最初期に幹事長と政調会長に就いた松井と浅田だ。
橋下は既存の枠組みを壊すことにはたけていたが、仲間をまとめるのが得意なリーダーではなかった。風を求めて維新に流れてくる自民系を中心とする議員たちをまとめ、規律をもって統制したのは松井である。そして浅田は地域主権を軸に慶應大学の公共政策学者、上山信一と政策を練り上げた。
彼らにとって幸運だったのは、それぞれの欠点を補い合える人材が「大阪の改革」を一致点に集ったことだ。橋下だけなら組織は瓦解していただろうし、松井が中心になったところで政策を作る力はなく、浅田にはポピュラリティーを獲得する話術も組織を束ねる胆力もなかった。
結党から1年後、11年4月の統一地方選の躍進、都構想を前進させるため府知事の橋下が辞職して市長選に、松井が府知事選に出馬し民意を問う11月の大阪府知事・市長のダブル選を制し、維新は国政選挙に打って出る。浅田が中心となってまとめた「維新八策」では、まず統治機構改革を打ち出した。
ところが、その後は内紛続きで良くも悪くも「ローカルパーティー」以上の規模にはならなかったことは歴史が示す事実だ。大阪では選挙に勝っても、全国規模の支持はない。国政政党として無くなりはしないが、大阪以外では増えることもない第三極、それが維新だった。
維新支持の実態や大阪都構想の実証分析で知られる関西学院大教授・善教将大の研究によれば、維新が議会や首長選で勝利を収めてきた大きな理由は、「大阪という都市の利益」を代表する政党と有権者に見なされたことにある。
府と政令市で協調が必要な場面で、党内の市議団、府議団あるいは議員個人の利害に基づく意思決定を地方自治の一つの在り方として許容するか、それとも「大阪という都市の利益」を損なう政党の行動と見なすか。維新はより後者の見方に重きを置いた。そして有権者の多くは両者を比較した上で、維新へと票を投じた。