加熱する安保議論には、沖縄の人々をどう守るかという視点が欠けている
OKINAWA, VICTIM OF GEOGRAPHY
沖縄の本土復帰と同時期に、アジアにおける米軍の規模縮小が進んだ。日本国内でも米軍は基地の統合整理を進め、特に首都圏や関東地方の基地や施設は次々に閉鎖されて跡地が返還された。
それに伴い、沖縄の米軍基地の重要性が増し、駐留米軍の規模も拡大。返還協定発効後10年ほどで沖縄の小さな島々に圧倒的多数の米軍基地が集中することになった。
東シナ海が日中の最前線に
米軍兵士とその家族数万人が沖縄で暮らすようになった結果、地元の自治体はさまざまな統治上の課題を抱えた。
日米地位協定は、駐留米軍の治外法権の概要を定める2国間協定だ。地方自治体は米軍関係のアメリカ人住民に対して権限を行使することができず、駐留米軍に関する問題は東京の日米地位協定の担当部局に吸い上げられた。
つまり地元の問題が国の政策の問題になる。事件や犯罪が起きると特に、自治体はもちろん、沖縄県民はそれ以上にもどかしい思いをしてきた。
1995年9月に起きた米兵による12歳の女子児童への集団レイプ事件を機に人々の抗議が再燃し、基地縮小の要求が高まった。
当時、日米政府は新しい日米防衛協力のガイドラインを策定しようとしていた。両国の政府は地元の怒りに応える形で、沖縄特別行動委員会(SACO)を設置。沖縄県民の負担を減らすために、米軍施設の整理統合や縮小、運用方法の調整について勧告をまとめるとした。
SACOの設置と前後して、沖縄県知事は米軍の軍用地の使用について協力を拒否した。国が知事を提訴したいわゆる「代理署名訴訟」は最高裁判所まで続き、1996年に県の敗訴が確定した。
それから1年余りのうちに、国会は駐留軍用地特別措置法の改正案を可決。軍用地の土地収用のプロセスから、知事を含む沖縄の公選役職者の役割が排除された。またしても沖縄の米軍基地の存在が、戦後の日本の地方自治において不可欠である代表制民主主義の手続きを制限する口実になったのだ。
沖縄をめぐる近年のおそらく最も顕著な変化は、日本の防衛戦略において沖縄の存在感が増していることだろう。
2000年代初頭以降、中国は海洋強国を目指している。かつては陸上防衛を軸としていたが、ここ数十年で近海の水域と空域を支配するという野心を重視するようになり、九州を起点に沖縄や台湾、フィリピンなどを結ぶ「第1列島線」を対米防衛線と見なしている。
最近では、中国人民解放軍の海軍が繰り返し琉球諸島の間を縫うように海峡を通過し、西太平洋およびその先で演習を行っている。さらに、空軍は日本列島全体を頻繁に周回している。