ロシアに苦しめられ続けた、知られざるウクライナ政治30年史
SEEKING DEMOCRACY
結果はヤヌコビッチの勝利だった。ところが政府による不正操作があったとする抗議デモが全国で起きて、最高裁判所が選挙のやり直しを命令。
12月26日に再選挙が行われた結果、ユーシェンコが7%以上の差を付けて勝利し、大統領に就任した。この一連の出来事がオレンジ革命だ。
ウクライナの政党政治の第2期は、やはり親ロシア派と親欧米派の対立に彩られたが、この時期は3つの有力な勢力があった。
親ロシア派の中心は引き続き地域党で、2005年にプーチン率いる統一ロシアと協力合意を結んで以来、一段とロシア寄りになっていた。
一方、親欧米派は、われらウクライナを中心とする陣営と、オレンジ革命の功労者であるユリア・ティモシェンコ率いる「ティモシェンコ連合」により構成されていた。
クリミア再編の思わぬ影響
オレンジ革命が起きた2004年から2014年までのウクライナの議会選挙や大統領選の結果を見ると、2つの陣営の支持基盤は、親ロシア派は東部、親欧米派は西部というように、地理的にはっきり分かれているのが分かる。
ドンバス地方とクリミアを含む東部は、エカテリーナ2世時代にロシア帝国の支配下に入ったため、ロシア系住民が多い。
一方、西部は11~16世紀半ばまでポーランド王国の一部となり、18世紀にオーストリア=ハンガリー帝国に併合されたものの、戦間期に再び大部分がポーランド領となり、ウクライナ語話者が圧倒的に多い。
だが、そこにロシアが大きく介入してきて、ウクライナの政党政治のバランスは大きく変わっていく。
2012年の議会選挙で躍進した地域党が、共産党を誘って与党連合を形成しようとしたところ、条件として、ロシアが進めるユーラシア経済連合への参加を迫られた。
それは3年前にティモシェンコが道筋を付けた、EUとの連合協定(将来的なEU加盟を見据えた協力合意)を見送ることを意味した。
この与党連合の決定に激怒した市民は、全国で激しいデモ活動を展開。いわゆる「尊厳の革命」に発展した。
デモ隊と治安部隊の衝突が数週間にわたり続いた結果、2014年2月21日、ヤヌコビッチ大統領と野党は大統領選の早期実施と憲法改正に合意する文書に署名した。その翌日にヤヌコビッチがロシアに逃亡して政権が崩壊すると、翌月にドンバス地方で親ロシア勢力の武装蜂起が始まり、クリミアはロシアに併合された。