北極圏海底に、300年生きる生物たちの楽園があった
ボエティウス博士たちは、海綿がなぜ生きているのかについて複数の説を検討した。しかし、検討を進めれば進めるほど、辺りの水中に栄養源は存在しないという事実に気づかされる結果となり、博士たちは頭を抱える。
あらゆる仮説に行き詰まった博士たちはそのとき、あることに気づく。ほとんどの海綿が、海底に広がる黒いじゅうたん状の組織の上に自生していたのだ。回収したサンプルを分析すると、じゅうたんのようにみえたその組織は、中空の固いチューブ構造が密集してできたものだった。その正体は、環形動物の一種であるチューブワームが1000〜3000年前に遺した構造物だ。
ガスを食べて生きるチューブワーム
まだカラシク山の活動が活発だったころ、この海底ではガスが盛んに噴出していた。そこで栄えたのがチューブワームだ。チューブワームには口がなく、ほかの生物をエサとして食べることがない。代わりに、海底の熱水噴出孔から吐き出されるガスからメタンや硫化化合物などを取り込み、体内の微生物の力を借りて分解・摂取する。
こうして栄えたチューブワームの集団だが、火山活動が停止してガスの噴出が弱まると付近から全滅した。後に残されたのは、大量の殻だ。軟体動物のチューブワームは、体の周りに固いチューブ状の殻を形成し、そのなかで暮らす。
数千年経った今日、この殻が海綿の貴重な栄養源となっている。硬いタンパク質でできたチューブを海綿に共生する微生物が酵素で分解し、それを海綿が摂取するのだ。
最新の研究で裏付けられる
こうした考えはあくまで仮説にすぎなかったが、海洋学者のチームによってこのたび裏付けされた。ドイツのマックスプランク海洋微生物学研究所に務めるテレサ・モルガンティ博士(海洋科学)が調査したところ、土台となっているチューブワームの残骸とその上に住む海綿について、炭素と窒素の安定同位体比がほぼ同じであることが判明した。両者のあいだに食物連鎖が存在することを示唆するものだ。
ある海洋生態学者は米サイエンス誌に対し、北極圏深海の生態系がこれまでほとんど研究されてこなかったと指摘し、「非常にすばらしい発見です」と述べている。
なお、海綿が足元のエサを食い尽くしてしまわないかと心配になるが、モルガンティ博士は楽観的だ。海綿は年に数センチというゆっくりとした速度で移動することができ、また新たなエサにありつくのだという。残されたじゅうたんの量を算定することは難しいが、少なくとも今後数世紀は問題ない見通しだ。その後、この広大なコミュニティは終わりを迎えることになるだろう。
アトランティック誌は、おそらくこの海綿動物が死んだあとも、数千年後になってその死骸がまた新たな生物の集団を育むことになるのではないかと予想している。北極海海底の一風変わった生物たちは、数千年単位の生命のバトンを受け継いでいるようだ。