勝海舟があっさり江戸城を明け渡した本当の理由 「無血開城」は日常行事だった
幕府側はもちろん勝ったほうでさえ「ほんとに?」と思ったにちがいない劇的な結末。それに乗じて、やれ行け、押せ押せとばかり進撃をたくましくする新政府軍。めざすは徳川の本陣、つまり江戸城の攻め落としである。
実際、彼らは3月6日の時点ではもう甲府に入っていて(以下日付に注意)、その日の軍議で、
──3月15日、江戸城総攻撃。
と決定している。
9日後である。将軍・徳川慶喜はすでにして寛永寺に謹慎しているから大将はいないのだけれども、しかし何しろ江戸の街には「旗本八万騎」と称される将軍直属の親衛隊が駐屯している。いやまあ実際はその駐屯というやつも天下泰平300年のうちに単なる定住と化したわけだが、それでも人数は圧倒的だ。
もらう給料(米の石高)も多いから、士気も高いと思われる。戦闘は苛烈をきわめるだろう。江戸は火の海になるだろう。だいたい城攻めというやつは、攻め手が勝つにしろ、守り手が勝つにしろ、どっちにしても街は火を放たれるものと相場がきまっているのである。しかしその最悪の事態は、結局のところ回避されることになった。
徳川家は総攻撃前日にあっさりと「開城」
新政府代表・西郷隆盛、および幕府代表・勝海舟が二度の会談をし、交渉をし、合意をしたことによる。会談日は3月13日と14日。つまり江戸城は、かろうじて前日に総攻撃をまぬかれたことになるわけだ。
その後の実務は、淡々としていた。4月に入ると新政府側の要人はつぎつぎと入城を果たしたし、5月には、徳川家を相続した6歳の徳川家達の、駿府70万石への転封が決定した(24日)。
家達および家臣団は、これにあっさりと従った。たしかに血は流れなかったのである。
これをイギリス名誉革命とおなじ知的かつ文明的な達成と見るか、それともイギリス名誉革命とおなじ流血未遂にすぎないと見るかは人それぞれだが、しかし日本の江戸開城があれと大きくちがうのは、これ以後に、大規模戦闘が続発したことだった。
無血開城から1年続いた旧幕府側の抗戦
言いかえるなら、無血開城後に血が流れた。
5月15日 上野戦争(天野八郎ら彰義隊が寛永寺で抗戦)
7月29日 北越戦争(河井継之助ら長岡藩兵が長岡城で抗戦)
9月22日 会津戦争(松平容保ら会津藩兵が若松城で抗戦)
(翌年)5月18日 箱館戦争(榎本武揚ら旧幕兵が五稜郭で抗戦)
日付はいちおう、新政府側の勝利が確定した日で統一した。つまり旧幕側は全敗したわけだ。このうち上野戦争は、厳密には徳川家達の駿府転封決定より前に起きているけれども、とにかくこうして年表をながめていると、こんにちの私たちは、
──どうせやるなら、なんで開城前にやらなかったのか。
正直なところ、そう首をひねらざるを得ない。そのほうが兵力の分散も避けられたし、臣下の一分も立ったろう。さんざん将軍の禄を食んでおいて、いざその危急のときに指をくわえて敵の城入りを眺めておりましたでは、後世はもちろん、同時代に対しても、かっこ悪いことおびただしいのである。
(なおこの場合、もちろん長岡藩兵と会津藩兵は話がべつである。彼らは将軍直属ではなく、それぞれの藩主に属しているため、江戸防衛および江戸城防衛の義務はもともとないからである)