2012年震災後の危機感と2021年コロナ禍の危機感、この間に何が変わったか
■田所 専門知の問題は、とりわけコロナの文脈で重要ですね。専門家とそうでない人は区別できても、専門家の間でも意見が常に一致するとは限らない。しかも専門家として語ることのできる領域はとても狭い。
それを総合していく知恵が必要になり、これは今回、苅部さんが「文系と『価値』、文系の『価値』」で書かれているように、いわゆる文系と言われる教養の在り方になるのだと思います。
くしくも待鳥さんも苅部さんも、「役に立たない学問」の意義を改めて検討されていて、我々が専門家に依存するとき、それをまとめていくものに対する需要が認識されたという印象を持ちました。小林さんはどうですか。
■小林 今回、76号だけでなく、その周辺の号も読み返しました。先ほど田所先生が、東日本大震災は大きなショックだったと話されていましたが、76号、77号、78号の論調は、やはりどう発言したらいいのかという戸惑いを全体的に感じます。
一方で、まさに76号でジョナサン・ラウシュ先生が「二つのポピュリズムに揺れる米国」、マーク・リラ先生が2012年に「拡大するアメリカの格差」(77号)、2013年にアレクサンダー・スティル先生が「二極化するアメリカ」(78号)を書かれています。
実は編集していた当時、知識人が悲観的過ぎるのではないかと思っていました。しかし、その後4、5年たってトランプ政権が誕生したのを思うと、『アステイオン』で議論を先取りしていたのだと改めて思いました。
■田所 今号で池内恵さんが「歴史としての中東問題」(ウェブに転載した記事はこちら:複合的な周年期である2021年と、「中東中心史観」の現代史)で、今年2021年は「アラブの春」から10年で、同時多発テロ事件から20年で、湾岸戦争から30年と書かれていて、冷戦後の時代というのは中東の30年として捉えられるのではないかと指摘しています。
そして、この10年の間にトランプ政権誕生やブレグジットのように、まさかと思っていたことが起こり、歴史は次の局面に移っていると思います。
■武田 話が戻りますが、東日本大震災のときよりも今のほうが危機感は薄いと田所さんは仰っていましたが、私の実感は逆です。
当時、私は海外にいて、3月16日に帰国しました。3月下旬はかなり緊張感を持って家族と東京で過ごしていましたが、最悪のシナリオは起きないだろうと分かってくると、福島や海岸線の災害として地域的に段々限定されていき、ほとんどの人は危機感を失っていったと思います。
一方、今回のコロナは、全ての人が感染する、あるいは感染させるので、より偏在するリスクのような気がしていて、その点は感じ方が違います。
■田所 その点ですが、海外と国内で異なる見方だったことが大きいかもしれません。実は私も震災後すぐにトロントで開かれる学会に行ったのですが、「もう日本は終わりだ」「文明的災禍だ」という論調でした。グローバルに見ると、原子力や放射能という文明的な一大ブレークダウンであると理解されていた印象です。
■武田 そうですね。しかしやはり国内的には、割と早い時期にリスク感覚を失っていたと思います。リスクのある施設を地方に押しつけて、都市部は電力を消費するという位置関係がつくられていった、その歴史の中に原子力発電の問題があると考えています。
そこにある危機が、いかに時間と空間の大きな広がりの中に根を下ろしているかという、そういうことを『アステイオン』は論じるべきだと思います。