最先端!がんセンター東病院トップが明かす「若者」「バカ者」「よそ者」な医師たち
──ほかの病院では、放射線治療とか外科手術とか、患者が選びにくいものなんですか。
だいたい、行ったところ(治療科)で決まりますよね。患者さんが外科に行けば、その科で全部見ることになります。抗がん剤も含めて。昔は抗がん剤専門の内科医は少なく、外科の先生方が中心的だったので、そんな感じでした。
──東大病院がそうでした。医師チーム全員が外科医でしたし、抗がん剤も外科の先生たちにやってもらいました。東病院では、内科が抗がん剤治療を担当してくれました。外科が主導という感じではないですね。
うちの外科医は、外科医らしくないのかもしれません(笑)。腕の良い外科医が揃っているけれど、伝統的に近寄り難い感じはありません。内視鏡治療などで、まれに消化管が穿孔したりすることがありますが、そうすると外科の先生方が嫌な顔もせずに手術をしてくれます。
ゲノム関係は内科がリードしてプロジェクトを進めていますが、周術期の薬物療法などは外科が中心となるようにバックアップしている。なかなかできないことです。それで、内科がいろいろな実績を上げることにもつながっている。ESD(内視鏡切除)を最初に実践したのも、この病院です。
──ESDの最初の症例は胃でしたよね。
そうです。私が担当したわけではないんですけど、立ち会いました。放射線と抗がん剤の併用治療も、日本では草分けでした。
──それはいつ頃のことですか。
開院して間もない頃です。新しい薬の治験もたくさんやっていました。(抗がん剤の)S--1もそうです。「こんな経口剤で効くの?」と思っていましたけれど、本当に驚くほど効きました。
2000年頃に分子標的治療薬が台頭してきます。がんは遺伝子の異常が積み重なって発生進展しますが、遺伝子解析技術が進歩して、その遺伝子異常に適した薬を開発するようになりました。残念ながら、「国際共同治験」という枠組みになった時に、日本は遅れをとってしまいました。
──なんで遅れてしまったんですか。
治験が国際化していく中で、日本の施設が参加できず、新薬開発が何周遅れにもなってしまった。今のコロナワクチンの開発のような感じでした。新しく開発された薬剤を患者さんに届けることもできず、研究もすべて遅れるわけです。
2005〜2006年頃に国際治験に参加し、私は海外で先端的な研究をする人たちと話をするようになって、考え方がかなり変わりました。それまでは承認された薬剤で治療するのが自分たちの研究(のやり方)でした。でも、国際的な治験に最初から入っていないと決定的に遅れます。最初に治験をするには、臨床だけではなく、基礎研究の視点が重要だと頭を切り替えられました。
日本は化合物の抗がん剤は強かったけど、分子標的薬の波が来て、さらに生物製剤的なものが開発の中心になった時、日本の研究は遅れてしまい、2005年ぐらいにはどん底に陥りました。そこから国際治験に積極的に入り出して、ようやく追いついてきましたが、10年はかかりましたね。