恐るべき江沢民の【1996】7号文件──ウイグル「ジェノサイド」の原型
2002年10月に訪米した時の江沢民 Jeff Mitchell-REUTERS
1996年3月19日に江沢民は中共中央政治局発【1996】7号文件を発布し実行したが、それこそが今日に至るウイグル人「ジェノサイド」の原型になっている。実態をたどると結果的に日本が後押ししたことが見えてくる。
【1996】7号文件が出てきた経緯
1996年3月5日から17日にかけて、北京の人民大会堂で全国人民代表大会(全人代)が開催された。この全人代では第9次五ヵ年計画が発布されて「今後5年間の経済発展と、2010年までの遠景(中長期)計画」が発布された。
全人代が閉幕した2日後の3月19日、江沢民は中共中央総書記として中共中央政治局常務委員会委員(チャイナ・ナイン)を召集して会議を開き、中共中央政法委員会から「新疆の統治を安定的に維持する問題」に関して意見を聴取した。その結果発布されたのが中共中央政治局発【1996】7号文件(中発【1996】7号文件)である。
中共中央政法委員会は中国国内の「安全問題」を管轄する部署なので、同委員会から聴取したという時点で、「新疆の統治と安定」に対する基本的な姿勢が見えてくる。つまり「うまく鎮圧していく」という精神だ。
中発【1996】7号文件に大きく反映されたのは、長年にわたり新疆ウイグル自治区の統治(と鎮圧)に携わってきた王恩茂(おうおんも)(1913年-2001年)の意見だということが随所に記録されている。たとえば書籍『中国共産党治理新疆史』(朱培民・王宝英共著、当代中国出版社、2015年)や論文「新疆穏定形勢変化および維穏政策分析」(李暁霞著、当代中国民族宗教問題研究・第10集、2017年5月)などに書いてある。
王恩茂はまだ新疆ウイグル自治区が設立される前の「中共中央新疆分局」の第一書記を1952年から55年まで務めている。中国が建国された1949年から1950年にかけては王震(1908年-1993年)が書記を、50年から52年までは王震が第一書記を務めていた。
王震は「泣く子も黙る」というほどの「殺人鬼」として名を轟かせており、中国語では「殺人如麻」(手当たり次第に殺しまくる)と表現される。泣き止まない子に「王震が来るよ!」と言うと泣き止むという逸話がある。建国初期からウイグル人を「逆らえば殺すぞ」という「手あたり次第の大虐殺」で黙らせた人物として有名だ。数十万を殺したと言われている。