日本の対ミャンマー政策はどこで間違ったのか 世界の流れ読めず人権よりODAビジネス優先
経済開発のために、各国指導者は外資の積極的導入による輸出志向型工業化を進めた。米国、日本などの西側先進国からの援助と投資を積極的に受け入れると同時に、一次産品などの先進国への輸出で外貨を獲得した。また、外資の投資環境整備のため強権による政治的安定がはかられ、民主主義の抑圧、野党の弱体化、共産党の非合法化が進められた。
外資のなかでも東南アジアで大きな存在感をしめしたのが、日本だった。敗戦の荒廃から立ち直り復活した日本資本主義は、新たな市場を国内から東南アジアにもとめはじめ、各国への戦争賠償を利用して市場進出の道筋をつけると、戦争賠償の終了とともにODAを各国に重点的に供与した。インドネシアを筆頭にASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国への供与額は、日本の世界全体のODA供与額の半分以上となった。ミャンマーはASEAN加盟国ではなかったが、日本が最大の援助供与国となった。[
ODAは道路や港湾、空港、工業団地、発電所などインフラ整備のための大型プロジェクトを中心に投与され、それが各国の経済開発に貢献したことは事実だが、同時に日本にとっても「金のなる木」であった。プロジェクトの青写真は日本の商社などが描いて相手国政府にしめす場合が多いといわれ、プロジェクトは日本企業と現地の有力企業が受注した。それとともに、ODAビジネスの利権をめぐる日本の政治家や企業と独裁政権のトップとそのクローニー(取り巻きの政治家、財界人)との間の汚職、腐敗が指摘されるようになる。1986年のマルコス政権、98年のスハルト政権の崩壊後、援助がらみの不正蓄財とみられる「マルコス疑惑」、「スハルト疑惑」が政治問題化した。
日本の経済援助を米国も支持した。供与国はいずれも反共国家であり、指導者は民主主義を抑圧する独裁者であっても、経済発展がすすむことは冷戦体制下で共産主義にたいする優位をしめすことになるからである。米国は独裁政権下の人権、民主主義の侵害に目をつむった。また、ODAがアジア諸国の経済発展に貢献しているという政治家や開発経済学者らの言説は、戦前からの日本の「アジアの盟主」意識をくすぐった。スハルト、マルコス、タイの開発独裁の指導者たちは、日本では「親日」と呼ばれた。