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「国民皆保険」導入を拒んだのは「アメリカニズム」だった

2021年2月9日(火)20時10分
山岸敬和(南山大学国際教養学部教授)※アステイオン93より

このような動きの中で、労働者に対する保護を拡大すべきだと主張する運動が、1905年に知識階級を中心に設立されたアメリカ労働立法協会(AALL)が旗振り役となり、地方レベルから広まった。労働者保護の一環として、公的医療保険の導入が唱えられた。

同様なプログラムはヨーロッパで先んじて行なわれていた。最初の公的医療保険はドイツで1883年に成立した疾病保険法であった。ビスマルク宰相は公的医療保険政策を拡充することで労働運動を抑えるとともに国力の増進を図った。1911年にはイギリスで国民保険法が制定され、その中に労働者を対象とした医療保険が含まれていた。

このようなヨーロッパでの動きにAALLなどアメリカの改革派も刺激を受けた。1915年、AALLはドイツ型をモデルにして労働者向けの公的保険を提案した。当時の政権やアメリカ医師会からも法案の立案作業に対して協力的な姿勢が示された。

しかし、第一次世界大戦への参戦が改革を取り巻く状況を一変させた。孤立主義が長く続いたアメリカでは、ヨーロッパでの戦争に参加することに反対する動きが強かった。しかしウィルソンは「世界の民主主義を守る」ことを理由に参戦を訴えた。そして1917年4月に参戦を果たすと、間もなく熱狂的な反ドイツ運動が起こった。そして同年11月にロシアで初の社会主義革命が起こったことで、アメリカ国内で社会主義に対する警戒心が強まった。これによって、アメリカ国内では自由や民主主義を守るというイデオロギーをめぐる戦争であるという意味合いがより強まった。

このような状況は公的医療保険をめぐる議論にも影響を及ぼした。連邦政府の関連委員会はAALL案を「ドイツ社会主義者の保険」と称し、アメリカの伝統的価値観とは矛盾するものとした。またアメリカ医師会もそれまでの協力的態度を改め、AALL案を「ドイツ皇帝が世界征服を企てたのと同時に玉座からやり始めた政策」として批判を始めた。労働者向けの公的保険を導入する動きは、このような反対を受けて挫折した。第一次世界大戦は、アメリカにおける公的医療保険をめぐる議論について、初めてアメリカニズムとの整合性を問う役割を果たしたのである。

※第2回:「国民皆保険」に断固抵抗してきたアメリカ医師会のロジック に続く

[参考文献]
山岸敬和(2014)『アメリカ医療制度の政治史――二〇世紀の経験とオバマケア』名古屋大学出版会

山岸敬和(Takakazu Yamagishi)
1972年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。慶應義塾大学法学研究科政治学専攻修士課程修了。ジョンズ・ホプキンス大学政治学部にて、Ph.D(Political Science)取得。南山大学外国語学部英米学科教授を経て、現職。専門はアメリカ政治、福祉国家論、医療政策。主な著書に"War and Health Insurance Policy in Japan and the United States: World War II to Postwar Reconstruction"(Johns Hopkins University Press)、『アメリカ医療制度の政治史──20世紀の経験とオバマケア』(名古屋大学出版会)などがある。

当記事は「アステイオン93」からの転載記事です。
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アステイオン93
 特集「新しい『アメリカの世紀』?」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス

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