かくも空虚な「上級国民」批判の正体
THE FAVORITISM QUESTION
署名に来た多くの人々は、まず理不尽に奪われた母子の命と残された夫に心を寄せていた。しかしそれぞれに断定調ではない話しぶりで「上級国民」の「不正」へ疑いのまなざしを向け、でも本当のところは分からない、と揺れていた。
筆者がある年若いカップルに「上級国民」という言葉を向けると、男性が「日本は平等だと言いたいけどそうじゃない。この件に限らず、平等なことは少ない」と諦め口調で苦笑しながら上級国民の存在を肯定。一方、連れの女性は「上級国民は存在しない。でもそんな雰囲気が出来上がっている」と軌道修正をした。
行き場のない被害者感情
上級国民はいる、いない。この処理できない感情に、最も苦しめられているのは被害者かもしれない。
「『怒り』についてのことは、『答えたくない』のではなく、『うまく答えられない』というのが正確と言いますか......」。池袋の事故で妻子を失った松永拓也(33)は、亡くなった妻と娘への愛で心を満たしていたい日々の気持ちと、捜査が一向に進まないなか募る加害者への処罰感情を葛藤の末、分けて考えようになり、ある程度整理がついたという。しかし飯塚への怒りは当然あり、「怒りや憎しみに囚われていると2人が悲しむ」との思いからそうした負の感情については口にするのは控えている、と苦悩もにじませた。その一方で、当事者ではない人々は、怒りに駆られて「上級国民だから」と、思いをむき出しにしている。
池袋の事故で一旦噴き出した感情は、「上級国民」という言葉を媒介として、過去にも「恵まれた人」が優遇されているとされる事例をつなぎ始めている。
時はさらにさかのぼる。2018年2月18日の朝、東京都港区で元東京地検特捜部長の石川達紘弁護士(当時78)が乗用車で歩道に突っ込み、男性をはね死亡させた。石川の運転するトヨタ・レクサスは男性を巻き込み、時速100キロ超のまま佐藤伸弘(50)が経営する金物店に突入。店は上階の居住スペースもろとも大破し、佐藤と家族は自宅兼仕事場からの退去を余儀なくされた。
「大げさかもしれないけど、僕の中の社会正義というのがなくなっちゃって」と佐藤は語った。事故のトラウマによる適応障害に苦しむ佐藤は、その克服の最大の壁になっているのが、元特捜部長であり事故当時から「上級国民」だとネット上で指弾される石川の処遇への疑念だと語る。
「どうせ仲間内でうまくやって、刑も軽くなって、っていう疑心暗鬼が僕の心の中を占めている」と、佐藤は言う。石川もやはり逮捕されないまま2018年12月に書類送検され、2019年3月に自動車運転処罰法違反(過失運転致死)などの罪で在宅起訴された。その後に池袋の事故が起き、2019年11月に筆者が取材に訪れると佐藤は刑事手続きへの不信感を口にした。
捜査を担当する東京地検の検事は「元特捜部だからといって甘いことをするつもりはない」と佐藤に語ったという。それは心の支えになっている、でも......と言いよどんで口をつぐみ、佐藤は自分の中に湧き出した不信感への戸惑いを吐露した。不正はないと信じたい気持ちと、もしかして、という気持ちが、被害者当人を苦しめていた。
そしてもう1人、時の権力と近いという理由で「上級国民」と名指しされた人物がいる。元TBSワシントン支局長の山口敬之だ。2019年12月18日、ジャーナリストの伊藤詩織が山口に対し性的暴行の損害賠償を求めた民事訴訟の判決が下されるとあって、東京地裁前には伊藤の支援者や傍聴希望者が大挙していた。
2015年4月3日、伊藤はアメリカでの就職について相談するため、東京都内で山口と会食。翌日未明にホテルで性的暴行を受けたとして、被害届を提出した。だが山口の逮捕は見送られ、当時警視庁の刑事部長だった中村格は週刊新潮の取材に対し山口の逮捕状の執行停止を「自分が決裁し」、逮捕を中止させたと認めた。