史上最高級の国際人、緒方貞子が日本に残した栄光と宿題
コソボから逃れてきたアルバニア人女性を労わる緒方 Reuters Photographer
<日本の外交史にも足跡を残した小さな巨人の遺産を日本は生かせるか>
JICA(国際協力機構)は緒方を連れてきたらしい−−。2003年某日、筆者は当時在籍していた政府機関でこんな会話が飛び交っていた様子を耳にした。JICAの労組が、緒方のいるニューヨークまで足を運び彼女を「口説き落とした」と言う。
言わずと知れた日本人初の国連難民高等弁務官、緒方貞子。国連の著名人にして日本を代表する国際人が、JICAのトップである理事長になると言う。にわかには信じ難かった。緒方の実績には文句の付けようもないが、JICA、JETRO、JBICと言う霞ヶ関で俗に「3J」と言われるこれらの政府機関はそれぞれの所轄官庁である外務省、経産省、財務省の退任官僚の「優良天下り先」。どれだけ世界で名を馳せようとも、霞ヶ関の「部外者」である緒方が外務官僚を出し抜いて理事長に就任するということは日本の官僚的常識を覆すことだったからだ。
だが緒方は2003年、JICAの理事長に就任した。今振り返っても驚きの経緯だったが、当時の外務省を取り巻く環境からすれば同省の「下請け」に甘んじていたJICA(の労組)には追い風が吹いていたのは事実だ。当時の田中真紀子外相の「伏魔殿」発言や、機密費問題で外務省には空前絶後の逆風が吹いていたからだ。お上品な官僚組織であったはずの外務省のプライドと立場は地に落ち、OBを我が物顔でJICAに天下らせる余裕を失っていた。JICA労組は機を見るに敏だった。外務大臣就任の打診を幾度も固辞した緒方をトップに据え、官僚支配の時代に一つのピリオドを打ったのだ。
そこまでは日本の官僚史だけでなく外交史にも大きな足跡を残した。だが、理事長に就任した緒方の偉大な功績と叡智を、果たして日本は十分に生かすことができただろうか。残念ながら、ノーと言わざるを得ない。
確かに、緒方が就任した直後のJICAには大きな変化が起きた。現場主義を信条とする緒方の意思に従い、JICAは新入職員同然の若手をいち早く現場である開発途上国に送り込んだ。緒方の理念を理想の国際協力のあり方と慕う若き国際協力人は志を高くしただろう。これこそ途上国支援のあるべき姿だと。
だが、緒方の信条が長く、そして深く浸透することはなかった。彼女はその後約10年に渡りJICAのトップに座し続けたが、当初の勢いと理念は年月とともに衰えた。