中国「開戦警告」発表:中国の本気度
北京の人民大会堂にはためく五星紅旗 Aly Song-REUTERS
5月29日の人民日報は、中国がこれまで開戦前に使ってきた常套句「勿謂言之不預」(警告しなかったとは言わせない)を発表した。貿易戦であれハイテク戦であれ、中国の本気度を窺わせる。(最後の<注記>をご覧いただきたい。)
人民日報が「勿謂言之不預」(警告しなかったとは言わせない)
5月29日付の中国共産党機関紙「人民日報」が第3面の「国際論壇」のコーナーで、「アメリカは中国の反撃能力を甘く見るな」という見出しで、「勿謂言之不預」という言葉を用いた。リンク先の最初のPDFで、赤線で囲んだ部分を少し拡大してご覧になると、簡体字で書いた「勿謂言之不預」という文字が読み取れるだろう。
これは直訳すれば、「警告しなかったと言うこと勿(なか)れ」だが、平たく言えば「中国が警告しなかったとは言わせない」となる。
中国が本気で戦闘を開始する前に「開戦警告」ときには「開戦宣言」として使われてきた常套句だ。
1962年の中印国境紛争
第一回目の「開戦前の辞」は1962年10月に起きた中印国境紛争である。
1949年10月1日に中華人民共和国(以下、中国)が誕生したころは、中国とインド(ネルー首相当時)は「平和五原則(領土主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存)」を掲げて兄弟の契りを結んでいたが、1956年にチベット動乱が起き、1959年に拿来・ラマ14世がインドに亡命政府を樹立すると、中印の関係は悪化していった。
そこでインドとパキスタンおよびインドの国境が交差するカシミール地域のアクサイチンにおいて、中印双方が相手が進入したと言い出して小競り合いとなったとき、中国は「勿謂言之不預」という言葉を1962年9月22日付の人民日報に載せた。
リンク先の2番目のPDFがそれだ。
これが第一回目の「開戦前の辞」すなわち「開戦警告」である。
その2ヵ月後に戦闘が始まり、中国人民解放軍の圧勝に終わった。こうしてアクサイチンは今も中国が実効支配し、インドが領有権を主張している。
二回目は中越戦争
二回目は1978年12月25日の人民日報第一面の社説だ。
リンク先の3番目のPDFがそれだ。見出しは「我々の忍耐には限界がある」。
こうして1979年2月17日に、中越戦争の幕が切って落とされた。
この「開戦前の辞」を発布したが最後、中国は必ず「戦争を開始する」のである。
もっとも、この中越戦争で中国は勝てなかった。
敗北したとは言わないが、勝利もしていない。アメリカとの長い戦争(ベトナム戦争)を戦って疲弊しているはずのベトナム軍に勝てなかったのだ。
これが中国人民解放軍の100万人リストラへとつながっていく。
そしてその中に、後にHuaweiを創設する任正非氏がいたわけだ。