永住者、失踪者、労働者──日本で生きる「移民」たちの実像
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第2章:失踪者たちのリアル
翌々日、私は福島県郡山市に向かった。カトリック郡山教会で、教会や労働組合など、ベトナム人の技能実習生を支援する人々がセミナーを開催し、実習先から「失踪」した元技能実習生たちも参加するとの情報を得ていた。実習生の失踪については国会やメディアでも盛んに取り上げられており、日本における外国人労働者の問題を考える上で避けては通れないテーマだと思っていた。
私はそこで1人のベトナム人女性と出会った。まだ20代前半でハノイ出身だという彼女は、昨年北海道の実習先から逃げ出し、その後いまいる郡山のシェルターまでたどり着いたという。目の前にいる小柄で明るいこの女性は、なぜ逃げなければならなかったのか。どうやって逃げたのか。彼女の名前と顔を出さないことを条件に、本人を含め、一連の流れを知る関係者たちからその顚末を聞いた。
彼女の実習先は、北海道東部の水産品加工工場。工場には全部で14人の実習生がいて、日本人の労働者は30人弱くらいだった。
毎日朝8時から仕事を始め、遅い日は23時半まで残業した。さばいた魚を真空パックに入れて、冷凍庫で保存する。毎週月曜から土曜まで、15年の夏から約2年半働いた。月の稼ぎを聞くと「一番高いは16万円、一番低いは6万円」。時期によって繁閑の差もあったという。
「日本に来るときはいっぱい希望を持っていたけど、実際に来たらすごいショックを受けました」。日本に渡航するためにつくった約100万円の借金は今もまだ残っている。
ある日、仕事中に同じベトナム人実習生の女性と口論になって顔をたたかれた。きっかけは相手に自分の昼食の弁当を踏まれたこと。逆上して自分も相手の顔を引っかいてしまった。
そんな2人のけんかを見て、工場側はすぐさま強制帰国を宣告。社長や部長から「帰れ」と言われ、航空券も見せられた。強制帰国までの間は監視下の部屋で「軟禁状態」に置かれた。ただし、スマートフォンは取り上げられず、トイレのためか鍵も掛かってはいなかった。この条件が、彼女に外の世界とつながる一縷(いちる) の望みを残した。
まだ帰りたくない──残り半年、実習期間が終わる3年間の区切りまで働きたいと思った彼女は、フェイスブックを通じて信頼できるベトナム人に相談をする。その結果、彼女の情報は回り回って、実習生の支援にも取り組む全統一労働組合の佐々木史朗書記長(66)のもとにまで届いた。
佐々木はすぐさま札幌を拠点とする支援者たちと連絡を取る。佐々木の頭に浮かんだ選択肢は2つ。新千歳空港に支援組織の人間を向かわせ出国間際にギリギリ保護するか、あるいは彼女自身が自力で脱出したところを保護するか。しかしその直後、「けんか相手のベトナム人が自分より先に逃げ出した」という知らせが彼女から届く。
軟禁状態とはいえ鍵が掛かっていなかったこと、たまたま軟禁場所からそれほど遠くないところにもう1人別の支援者がいたことから、佐々木は2つ目の選択肢に焦点を当てた。佐々木は彼女とその支援者をつなげ、待ち合わせの日程と場所も決めた。
当日。小さなバッグ1つで彼女は逃げ出した。真冬の北海道。辺り一面に雪が積もっていた。彼女は何とか脱出に成功し、待ち合わせ場所で支援者と落ち合う。次の目的地は札幌。佐々木が最初に連絡を取った札幌の支援者たちのもとへと、彼女は1人でたどり着く必要があった。
工場や監理団体の人間が失踪した彼女を捜しに出ることは目に見えていた。最寄りの駅から札幌駅に向かうのはリスクが高過ぎる。彼女と落ち合った支援者は、最寄り駅から離れた別の駅まで車を走らせ、彼女をその駅で札幌行きの電車に乗せた。
電車の中では、札幌までの行き方を丁寧に教えてくれた日本人がいたという。本当は追跡者から見つかるリスクを下げるために鈍行列車を使う計画だったが、その親切の結果、彼女は予定よりもかなり早く札幌に着いてしまう。自分のスマホはデータ通信のみ可能で通話ができないため、駅前にいた人に話し掛け、電話を貸してもらった。ようやく、無事に支援者たちとつながることができた。
札幌の日本人支援者はこう語る。「北海道にも技能実習生はたくさんいて農業や漁業を支えています。いつかこういうことが起きると考えて、弁護士や労働組合、研究者などによるネットワークができていました」
その後、彼女は自分と近い境遇に置かれたベトナム人たちが暮らす郡山のシェルターへと移ってきた。実習生には転職の自由がなく、実習先から逃げ出した者がほかの場所で働けば不法就労となってしまう。そのため彼女は1年近くにわたって仕事ができていない。彼女は今、未払い賃金の支払いなどを求めて裁判で争っている。