「人生100年時代」の暮らし方──どう過ごす?! 定年後の「10万時間」
4|「老いる力」を鍛える
長寿時代を迎えた今日、重要になるのが「老いる力」だ。「老いる」とは一体どのようなことなのか。天田城介著『老い衰えゆくことの発見』(角川選書、2011年)には、『<老い衰えゆくこと>とは、「できない現在の自分」「できなくなった現在の当事者」に直面しながらも、それでも「できていた過去の自分」ないしは「できていた過去の他者」のイメージに引きずられ、それに深く呪縛されながら苦闘する日々の出来事なのだ』とある。
つまり、「老いる」とは成長神話との葛藤のなかで、自己のさまざまな能力の衰退・喪失の変化を自尊心を持って受け容れるプロセスなのだ。過去の「できた自分」に呪縛されるのは、自分自身が「成長」という価値観に支配されているからかもしれない。高齢期にはこれまで人生を評価してきた「成長」という尺度に替えて、あらたな価値観に基づいて生きるための意識の切り替えが必要ではないだろうか。
「老いる力」はアバウトで好い加減に生きる「あそび」(Redundancy)の力でもある。それは今の日本の社会デザインにも求められる。日本社会では論理的、効率的、合理的なことばかりに目を奪われ、直感や非合理性などの要素を加えた多元的視点が薄らいでいるように思える。現代社会は重要な「あそび」を失っているのかもしれない。
「老いる力」は多様性を発見し、「あそび」をつくり出す。多様な人材構成の組織や社会は活力を有し、「あそび」が加わることで安全性と安心感が増す。長寿社会・日本にとって、膨大に埋蔵する「老いる力」を有効活用することが重要だ。「人生100年時代」こそ、個人も社会も既存のパラダイムにとらわれず柔軟に思考や行動のできる「老いる力」を鍛えることが求められている。
おわりに~「アイデンティティ」の時代へ
前述の『定年ゴジラ』の中には、定年になったサラリーマンが次のように語る場面がある。『「余生」って嫌な言い方だと思わないか。余った人生だぜ? ひでえこと言いやがるな、昔の奴は。でも、うまいこと言うもんだよ。余りだ、余り、俺たちがいま生きてるのは、自分の人生の余った時間なんだよ。そんなの楽しいわけないよな』。
一日の生活時間をみても、長くなった人生をみても、これまで「余り」と思われていた部分が、今、非常に大事な時代を迎えている。「余暇」を余った暇な時間だとか、「余生」を余った人生の時間と捉えていては、確かに「生きること」が面白いわけがない。「余り」の時間や人生こそが肝心だと思える意識転換が必要ではないだろうか。
充実した「余暇」を過ごすために睡眠や仕事などの1次・2次活動があり、人生の収穫期である定年後を豊かに暮らすために職業生活がある。ただ、定年後の趣味も大事だが、それだけでは長い高齢期を生きぬくことはできない。われわれが幸せな人生を全うするためには、常に「生きがい」を持つことが重要だ。自らの能力を活かし、社会に貢献することが「生きがい」を創出する。
サラリーマンはいつか定年の日を迎える。仕事から解放された時、アイデンティティをどこに求めたらよいのだろうか。他者から必要とされることが自らの居場所をつくり、アイデンティティの形成につながる。「人生100年時代」の定年後の「10万時間」を幸せに生きる上で、定年後のアイデンティティの獲得がきわめて大きな役割を果たすだろう。これまでの生活時間や人生の重心を少しシフトすると、あらたなアイデンティティ発見のためのライフデザインが見えてくる。
*この記事は「ニッセイ基礎研究所HP」からの転載です
[執筆者]
土堤内昭雄 (どてうち あきお)
ニッセイ基礎研究所
社会研究部 主任研究員