日露平和条約締結は日本の決断次第──そろそろ2島返還で決着の時だ
また、以下の地図は大正13年(1924年)に出版された一般的な日本地図の北海道部分(付千島列島)であるが、
筆者が赤囲み部分で明示したように、国後・択捉の上に「千島列島」と明示されている(『日本地図帖』、小川琢治著、成象堂、1924年)。
つまり、戦前、いや吉田茂などが自ら認めたように戦後の一時期まで、千島列島には国後・択捉が含まれるというのは、社会通念上の常識であった。国後・択捉は千島列島ではない、という現在の日本政府の公式見解の方が、どちらかと言えば非常識であり、無理筋であるのがおわかり頂けたであろう。4島返還(帰属確認)を主張するために、政府は「千島列島そのもの」の定義を1956年以降、無理矢理変更したのである。
わが国固有の北方領土という作られた物語
作家の佐藤優氏は、前掲書の解説として、同書後半に次のように記述している。
本書を読めば、現在、日本政府が不動の真実のごとく国民に提示している歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島返還という立場が、実は五五~五六年の日ソ国交回復交渉の過程で作られた物語であることがよくわかる
出典:前掲書、佐藤優氏、強調筆者
そして佐藤優氏は次のように締めくくっているのだ。
(前略)サンフランシスコ平和条約で日本は、国後島と択捉島を放棄していないという新しい物語なのである。政府が作った物語が、国民に定着する場合もあれば、そうでないこともある。歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島が、わが国固有の北方領土であるという物語を日本国民は信じ、五六年が経過した。そして、この物語は、当初から日本政府が四島返還を要求していたという神話に転化した。(中略)私も日本は今後もロシアに対して、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の返還を要求するのは、当然のことと考える。ただし、日本政府が1951年に国後島と択捉島を放棄したことがあるという歴史的事実を神話によって覆すことはできない。
出典:前掲書、佐藤優氏、強調筆者・漢数字を算用数字に変換