人種差別を理由に代表引退のエジル そしてドイツでわき上がる論争
勝てばドイツ人、負ければ移民
エジルがドイツ人としてのアイデンティティを失いかけているのも無理はない。声明でエジルは、「グリンデルとその一派にとって自分は、勝てばドイツ人であり、負ければ移民なのだ」とも指摘している。これは異なるルーツを持つ選手たちが多く活躍するサッカー界でしばしば言及されることだ。
たとえば、ベルギーのロメオ・ルカク選手も「調子のいいときは、新聞に『ベルギーのストライカー、ロメオ・ルカク』と書かれているが、調子の悪いときは『コンゴ系のベルギーのストライカー、ロメオ・ルカク』と書かれる」と指摘している。
そして、このように民族的バックグラウンドが永遠に取りざたされるのはビジブル・マイノリティ(可視少数派)ばかりだ。ポーランド出身であり、白人であるルーカス・ポドルスキ選手の民族的背景が積極的に前に押し出されることはあまりないだろう。この点に関しドイツでは、今回の件を受けて、Herkunftsdeutsche 「元来のドイツ人」 あるいはBiodeutsche「自然なドイツ人」、Migrationshintergrund「移民系」といった差別的な言葉遣いに注意を促す動きも出始めている。
差別を絶対に許さないという市民は多い
ただ、これらを踏まえても、この国はきっと大丈夫だろうと思わせるものがある。それは先にも述べた、差別を絶対に許さないという市民、とくに若者の強い意識だ。
それは、徹底した歴史教育から来る。テレビなら、とくに何かの記念日ではなくとも、チャンネルを回せば毎日必ずといっていいほど戦争関係の番組を放送している。子供たちは社会科見学で強制収容所を一度は見に行く。歴史を繰り返さない、二度と嫌われ者の国になりたくない、という意識が若者から非常に強く感じられる。
外国人だからといって、制度的なこと、たとえば教育や補助金において差別されることも個人的にはあまりない。筆者の暮らすニュルンベルクは、ナチスの本拠地という暗い歴史と保守的な文化を持つが、ドイツでもかなり治安のいい街で、じろじろ見られはしても、侮蔑的な言葉を直接投げられたことはあまりない。
移民の統合を目指すドイツで、今こそ広く理解されなければならないのはカジュアル・レイシズムの概念だろう。それが定着すれば、たとえば多民族国家の最も成功した例と言われているカナダのように、移民のなかにもホスト国に対する誇りと忠誠心、そして、全部ではないにしても部分的に共有されたアイデンティティが育まれるのではないかと思う。