歓迎すべき変化? マスメディア時代から「小さな公共圏」時代へ
当然のことながら、公共圏の姿は、メディア変容のプロセスのなかで変動していく。かつて身体を媒介にして成立していた具現的公共圏が、活字メディアによる市民的公共圏へと取って代わられたように、20世紀的な論壇やジャーナリズムのあり方もまた、新たなメディアからの挑戦を受けざるをえない。
なし崩し的なメディア変容は、未来を見通せない人々を不安にさせる。見たいものしか見ようとしないユーザ、インターネット上を飛び交う極端な言論、タコツボ化していく世界認識、島宇宙化していくネットワーク――そうした事実を目にするたびに、啓蒙的理性が「やれやれ」とつぶやく。しかし、「島宇宙化」という現象それ自体は、必ずしもネガティブなものとばかりはいえない。
これまで「社会の木鐸」たることを自負し、たとえば「客観・公正・中立」などのスローガンを掲げて展開されてきた日本の言論やジャーナリズムは、多く場合、男性の、会社員の、エリートの、異性愛者の、都市在住の、健常者の、日本語話者のメンバーによって担われてきた。
そうした一定の属性をもった人々が生活世界の全体像を代弁することは、もちろんできるはずがない。局所的な関心に根差した島宇宙的なネットワークが、こうした旧来のエリート主義に対してシニカルな判断やオルタナティブな可能性を提示することはありうる。オタクであれ、セクシュアル・マイノリティーであれ、インターネットによってコミュニケーションが可能になった人々の島のようなネットワークもまた、ひとつの公共圏となりうるからである。
したがって、公共圏という空間のサイズは、必然的に小さなものとならざるをえない。むしろ、巨大な公共圏が成立すること自体が、歴史的には例外的な現象だったのかもしれない。だとすれば、無数の小さな公共圏が出現したことは歓迎すべきことであるし、事実、オルタナティブで草の根的な言論活動は、カフェや路上のパレードや学校新聞のような場所で、着実に展開してきた。21世紀の大きなメディア変容のなかでこそ、こうした小さな公共圏による言論活動の可能性は追求され続けなければならない。
しかし、冒頭に述べたようなコミュニケーションの極端化もまた、もう一方の現実として無視することはできない。私たちは世界と瞬時につながることのできるメディアを手にしたが、同時に、異質な他者をフィルタリングする力も手にしてしまった。このフィルタリングこそ、対話という、公共圏にとって最も重要な契機を奪うものであり、異質な他者との出会いの機会を失わせるものである。異質な他者との対話可能性は決して手放してはならないが、そのコミュニケーション上の仕掛けをどのように作り出すのか。それは人類史的な課題でもあるだろう。
[筆者]
周東美材
1980年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了、博士(社会情報学)。首都大学東京、東京音楽大学等の講師を経て、現職。専攻は文化社会学。著書に『童謡の近代――メディアの変容と子ども文化』(岩波書店、日本童謡賞・特別賞、日本児童文学会奨励賞)、『カワイイ文化とテクノロジーの隠れた関係』(共著、東京電機大学出版局、日本感性工学会出版賞)、『文化社会学の条件――二〇世紀日本における知識人と大衆』(共著、日本図書センター)など。
※サントリー文化財団ウェブサイト「エッセイ/レポート」より一部要約抜粋しています(全文はこちら)。
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