この男、プーチン大統領が「中東の盟主」になる日
「(ロシアにとって)シリアで最も重要なのは、ISISに加わったロシア人が、ロシアに戻ってこないようにすることだ」と、ビャチェスラフ・ニコノフ下院議員は語る。「中東への介入は、ロシアの安全保障の問題だ」プーチンの決断は大成功を収めた。
今やシリアの陸にも空にもロシア軍が展開し、リビア沖にはロシアの軍艦がうろつき、トリポリからダマスカスまでロシアに友好的な指導者が権力を握る。トランプはISIS討伐を公約に掲げて米大統領に選ばれたが、プーチンの反応を意識せずにその戦略を練ることはできなくなった。
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ソ連時代の影響力を取り戻せ
そもそもソ連が中東に影響力を持つようになったのは、アラブ社会主義と大きく関係している。これはソ連が掲げたプロレタリア革命とは異なり、旧宗主国(いわゆる西側諸国)の影響力排除を目指すアラブ民族主義ゆえだったが、エジプトのガマル・アブデル・ナセル大統領の登場が、ソ連に中東進出の大きなチャンスをもたらした。
ナセルは1956年、エジプトの経済開発のためにスエズ運河の国有化を宣言。これを機に、歴史的宗主国であるイギリスとフランスの影響力が大幅に弱まると、ソ連の武器と資金が流れ込むようになった。ソ連の技師たちはナイル川上流にアスワンハイダムを建設し、バース党(アラブ民族主義政党)が権力を握ったシリアとイラクで近代的な都市を建設した。
この時期、アラブ諸国の政府高官や医師らエリート層は、こぞってモスクワに留学した。ハフタルもその1人だ。一方、ソ連の秘密警察KGBの幹部は、リビアやエジプト、イラク、シリアで似たような治安組織の設立を助けた。
これを見たアメリカは、中東で共産主義のドミノ現象が起きることを恐れ、各国に莫大な資金援助をするようになった。特にイスラエル、サウジアラビア、エジプトには、大規模な軍事援助を行った。トルコは1952年のNATO加盟後、米軍の航空機や戦艦、さらにはジュピター中距離ミサイルの配備を受け入れた(ジュピター配備はキューバ危機のきっかけとなった)。
91年のソ連崩壊後もしばらくは、ソ連と友好的だった中東の指導者たちは、反米的な姿勢を維持した。だが、やがて1人また1人と権力の座を追われていった。イラクのバース党指導者だったサダム・フセインはその第1号と言えるだろう。
11年のアラブの春は、ロシアに直接の関係はなかったが、連鎖反応的にウクライナ、ジョージア(グルジア)といった旧ソ連諸国で親ロ政権が崩壊、11年末にはモスクワでも10万人規模の反政府デモが起きた。これを見たプーチンは、アラブの春からの一連の流れは、米政府主導の陰謀だと考えた。彼の目には、「(カイロの)タハリール広場と(キエフの)独立広場はどちらも、自分をおとしめる陰謀」に見えたと、モスクワ駐在のある欧米諸国の外交官は言う。「私たちは被害妄想だと笑い飛ばしたが、彼らは本気だった」
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