小池都政に「都民」と「民意」は何を求めているのか
(3)小池都政の《民意》
都民が求めるのは、都政の課題を誠実に解決し、結論を出して、都民生活に必要な行政サービスを提供することではない。ただ、ワイドショー的に「課題を掘り起」こして「注視」「注目」を集め「見て、知って」頂ければよい。例えば、築地市場も東京五輪会場も予算規模も、都民にとっては他人事の「遊興」でしかない。予算など名目的に圧縮しても結果的に膨れ上がるのは都民も知っている。豊洲新市場の安全・安心などの着実な解決など、平均的都民は求めていない。むしろ、推理ドラマのように「犯人探し」を求める。都政の判断によって被害や影響を受ける人の痛みを、都民は感じない。利害関係者は単なる「助演俳優」でしかなく、「迫真の演技」であればあるほど、「遊興」度が増す。「小池劇場」には「大きな黒いネズミ」(悪役・敵役)も必要であり、「歴代市場長」や「都議会のドン」がやり玉に挙がり、石原慎太郎・浜渦武生正副知事も都「戯」会「戯」場に「出演」した。
都政においては、都知事・都議会議員を統制する民意は存在しない。代表民主主義の原理と利害関係集団の多元主義が貫徹する都性では、都民も民意も基本的に不在である。真面目な都政運営を期待せず、「遊興」を求める《民意》があるだけである。ただ、特段の「好演」をしなくても、都議会多数派と談合している限りは、都政運営は進む。但し、《民意》は退屈している。そのとき、都知事が都議会多数派と談合しないためには、都民に「遊興」を提供し、都議会との対決も「遊興」として提供して、《民意》を喜ばせていく必要がある。
これまでの都性においては、選挙結果は必ずしも民意でも〈民意〉でもない。圧倒的な選挙民の投票結果でさえも、都知事の正統性の政治資源とはならない。他の自治体とは異なり、都性では代表民主主義の原理が相対的に維持されている。それゆえ、都政では、マニフェストも都民投票・プレビシットも大量都民参加も、いずれも回避されてきた(注15)。都性での《民意》とは、都政が提供する「遊興」に対して、観客としての満足/不満足を示すものである。都民とは視聴者である。《民意》は、都知事による操作の対象ではあるが、《民意》は都知事の行動を統制しない。しかし、〈民意〉によって都民を統制することもない。ただ、都知事の地位は都民が直接投票する「オーディション」で決まる以上、《民意》は「主演」の継続を左右する面はある。そこに、《民意》が〈民意〉に転化する可能性が開かれている。
おわりに
"民意"には、[民意]、民意、〈民意〉、《民意》などと、多様な形態がある。多くの自治体では、一九九〇年代以降の「改革」の帰結として、それまでは[民意]しかなかったのに対して、代表される住民の意思が登場し、それが民意として正統性を持つようになってきた。それゆえに、選挙結果を〈民意〉で事後正当化できるため、首長は〈民意〉を政治的資源として、他の政治家や個々具体の住民・団体の反対・抵抗を抑圧する自己正当化の手段に使い出す。そこでは、選挙結果=〈民意〉の威光によって、実際に生活する個々の住民の具体的意思や民意を否定する逆流現象が生じる。