情で繋がり、情でつまずく保守の世界~森友学園以外にも繰り返されてきた保守の寄付手法~
全員、とは言わないが、多くの人々が、時期も目的も違う「保守運動」に共鳴し、同じように賛同人等(講演や応援演説を含む)になっているところが興味深い。つまるところ、きわめて限られた狭い世界で、「愛国」と銘打ってさえいれば、同じような人間が同じような場所に毎回出現しているムラ社会こそが、保守界隈の実相なのだ。
「事故る」と冷たい保守の「情」
毎日新聞が3月14日に掲載した「さて今の思いは...「広告塔」の保守系文化人たち」には、森友学園の広告塔となった保守系言論人の人々の率直な思いが吐露されている。
八木秀次氏「学園はなんちゃって保守だ。ひとくくりにされたくない」
中西輝政氏「学園に思想性を感じなかった。(教育勅語の唱和は)誰かに見せるためのショーの様に感じた」
高橋史朗氏(前略)「森友の教育方針と「親学」との関連が不明でコメントできない」
中山成彬氏(前略)「私も園児に教育勅語を斉唱させている幼稚園ということで視察したことがあるが、経営者自身が勅語の精神を理解していないようだ」
平沼赳夫氏(事務所)「こちらが知らない間に掲載されていた」「本当に迷惑している」
などと一様に突き放している。これらの言を全面的に信ずるとしても、なぜ些かでも初手の段階から同学園の教育内容に不信や違和感を持っていたにもかかわらず、講演会に参加したり、協力する姿勢を見せたのだろうか。それは、ひとこと「情」の問題に尽きる。愛国を掲げてさえいれば、その内容の良し悪しはともかく「同志」として連帯し、有形無形に協力するというよく言えば「義理人情」、悪く言えば「なれ合い」のムラ的世界観の中にいる結果なのである。
情で繋がり、情でつまずく保守の世界
2007年、2014年、2017年と3つの大きな「愛国」を標榜した保守運動や保守事業における賛同人が、くしくも「映画製作」「都知事選立候補」「学校建設」という全く違う目的にもかかわらず、それを支え、また広告塔に利用(された)人々がこれほどの割合で重複するという事実は、保守界隈=保守ムラが、いかに閉鎖的であり、またその狭い世界の中で「情」の理屈が発生し、違和感や不信や不正義が「情」の前でかき消され、ムラの中の巨大な同調圧力となって席巻していたことを何よりも物語っている。