最新記事

海外ノンフィクションの世界

セックスとドラッグと、クラシック音楽界の構造的欠陥

2017年2月8日(水)17時33分
柴田さとみ ※編集・企画:トランネット

彼女のように1970年代に音楽の道を選んだ若者たちを後押ししたのは、「社会を豊かにする公共の利益」として音楽をもてはやす1960年代以降のカルチャーブームだったと、ティンドールは指摘する。

「音楽は社会のためになる崇高なもの。だから公的資金によって支えるのが当然である」という風潮のもと、アメリカのオーケストラや音楽学校は公的資金や寄付金を頼りに、実際の需要に見合わない拡大を続けていった。そうしてブームがとっくの昔に終焉を迎えた後もなお、クラシック界はかつての虚像を追い続け、受け皿のない業界に大量の学生を送り込み続けているのだ。

そんないびつな構造を厳しく批判する一方で、ティンドールはプロの音楽家を志す読者に訴えかける。低い賃金、不安定な雇用、長時間におよぶ単調な練習、そういった厳しい現実をすべて受け入れられるほど自分は真に音楽を愛しているか、もう一度自らに問いかけてほしい、と。

【参考記事】「音楽不況」の今、アーティストがむしろ生き残れる理由

彼女の音楽への愛は確かに本物だったはずだ。それは本書の随所から伝わってくる。重い心臓病を抱えるピアノ奏者サムとの心通い合うリサイタル、オーケストラの息がぴったりと合ったときの魂の震えるような感動、人生初のソロリサイタルで感じた音楽への深い喜び――。

だが、そんな彼女でさえ長年のフリーランス生活に疲弊し、何十回目かのオーディションに落ちたあるとき、虚無感とともに思うのだ。「もうたくさんだった。自分がこんなことを好きでやってる振りをするなんて、もうたくさんだ」

結局、ティンドールは39歳にしてプロの音楽家の道を捨て、大学のジャーナリスト学部で学びなおす決意をする。ニューヨークを発つ前の最後の夜の逸話が印象的だ。シティ・オペラで代理演奏を務めた彼女は、皮肉にも音楽人生でそう何度もないような会心の演奏を披露する。同僚の楽団員からの賛辞に、しかし彼女はもはや舞い上がることはなく、心のなかで冷静にこうつぶやくのだ。

「今夜の演奏は、天から偶然降ってきた素敵な贈り物にすぎない。ごく稀にしか実をつけない木から、たまたま完璧な木の実が採れただけのことだ」

それはまさに音楽という芸術の美しくも残酷な本質なのだろう。そしてその本質は、本来「仕事」という枠組みとは相いれないものなのかもしれない。


『モーツァルト・イン・ザ・ジャングル【上】
 ~セックス、ドラッグ、クラシック~』
 ブレア・ティンドール 著
 柴田さとみ 訳
 ヤマハミュージックメディア


『モーツァルト・イン・ザ・ジャングル【下】
 ~セックス、ドラッグ、クラシック~』
 ブレア・ティンドール 著
 柴田さとみ 訳
 ヤマハミュージックメディア

トランネット
出版翻訳専門の翻訳会社。2000年設立。年間150~200タイトルの書籍を翻訳する。多くの国内出版社の協力のもと、翻訳者に広く出版翻訳のチャンスを提供するための出版翻訳オーディションを開催。出版社・編集者には、海外出版社・エージェントとのネットワークを活かした翻訳出版企画、および実力ある翻訳者を紹介する。近年は日本の書籍を海外で出版するためのサポートサービスにも力を入れている。
http://www.trannet.co.jp/

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

フジ・メディアHD、業績下方修正 フジテレビの広告

ビジネス

武田薬、通期の営業益3440億円に上方修正 市場予

ビジネス

ドイツ銀行、第4四半期は予想以上の減益 コスト削減

ビジネス

キヤノン、メディカル事業で1651億円減損 前12
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプ革命
特集:トランプ革命
2025年2月 4日号(1/28発売)

大統領令で前政権の政策を次々覆すトランプの「常識の革命」で世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 2
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
  • 3
    DeepSeekショックでNVIDIA転落...GPU市場の行方は? 専門家たちの見解
  • 4
    トランプのウクライナ戦争終結案、リーク情報が本当…
  • 5
    緑茶が「脳の健康」を守る可能性【最新研究】
  • 6
    東京23区内でも所得格差と学力格差の相関関係は明らか
  • 7
    今も続いている中国「一帯一路2.0」に、途上国が失望…
  • 8
    血まみれで倒れ伏す北朝鮮兵...「9時間に及ぶ激闘」…
  • 9
    ピークアウトする中国経済...「借金取り」に転じた「…
  • 10
    フジテレビ局員の「公益通報」だったのか...スポーツ…
  • 1
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 2
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のアドバイス【最新研究・続報】
  • 3
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果が異なる【最新研究】
  • 4
    日鉄「逆転勝利」のチャンスはここにあり――アメリカ…
  • 5
    緑茶が「脳の健康」を守る可能性【最新研究】
  • 6
    戦場に「杖をつく兵士」を送り込むロシア軍...負傷兵…
  • 7
    DeepSeekショックでNVIDIA転落...GPU市場の行方は? …
  • 8
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
  • 9
    血まみれで倒れ伏す北朝鮮兵...「9時間に及ぶ激闘」…
  • 10
    煩雑で高額で遅延だらけのイギリス列車に見切り...鉄…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のアドバイス【最新研究・続報】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 5
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 6
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 7
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 8
    中国でインフルエンザ様の未知のウイルス「HMPV」流…
  • 9
    失礼すぎる!「1人ディズニー」を楽しむ男性に、女性…
  • 10
    戦場に「杖をつく兵士」を送り込むロシア軍...負傷兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中