最新記事

日本

埼玉の小さな町にダライ・ラマがやってきた理由

2016年12月28日(水)11時24分
高口康太(ジャーナリスト、翻訳家)

「これを境に人生が変わった」と西蔵さんは語る。家族は離ればなれになり、政府高官の息子だった西蔵さんは中国政府が作った小学校に入れられ、中国共産党の政治教育を徹底的に叩き込まれた。幼い子どもへの影響は大きく、真新しい人民服を着られることをうれしく思い、チベット人が尊敬するダライ・ラマ法王をも国家分裂主義者の悪い奴だと思うようになったという。

 1962年、インドからひそかにチベットに戻った父に連れられ、家族はチベットを脱出した。わずか10歳の西蔵さんも徒歩でのヒマラヤ越えという難行に挑んだ。中国軍の監視を逃れるため、昼間は洞窟で寝て、月明かりを頼りに夜間に移動する逃避行だった。どうにかインドにたどり着いた家族は西ベンガル州ダージリンのチベット難民センターでの暮らしを始めた。そしてその2年後、西蔵さんに日本行きの機会が訪れる。

 日本に行けば、難民とは違った道が開ける。そう考えた父親は西蔵さんに日本留学を強く勧めたという。しかし、ヒマラヤ山脈のふもとから、高度成長期の日本にやってきた西蔵さんにはカルチャーショックが大きかったという。

「来たのはいいが、見るもの聞くもの新しいものばかり。テレビや地下鉄など、インドにはないものばかりに圧倒されたし、食事もチベット人の口に合わず、私ら5人は、毎日ホームシックだった」

日本社会に溶け込めたのは教育のおかげ

 外国人が珍しかった時代、しかも大都市ではない毛呂山町ということを考えれば、現在の日本よりも相当に条件は厳しかったはずだ。どのようにして西蔵さんたちは日本社会に定着することができたのだろうか。

「丸木先生は本当に教育熱心な方でした。私たちが日本社会になじめるよう、学校の勉強についていけるよう、徹底的につきあってくれました。病院の若い職員がマンツーマンで家庭教師として親身になって教えてくれましたし、丸木先生からも徹底的に教育を受けたのです」と西蔵さんは振り返った。

 チベットから来た留学生たちは、当時の日本のマスコミに大々的に取り上げられ、小さな町の有名人にもなった。「近所の人にもとても良くしてもらった。外国人だからといって差別されたことはありませんね」と西蔵さんはいう。こうした環境でチベット人の子供たちは成長していったのだ。

 後に15人のチベット人少女たちも来日。総勢20人のチベット人少年少女が毛呂山町で勉学に励んだ。

 それから半世紀。丸木氏の運営する毛呂病院は1972年に埼玉医科大学の母体となり、丸木氏は1994年に永眠する。その遺産として、チベット難民の子供たちの多くは、成人後、埼玉県各地の病院で勤務するようになった。

 西蔵さんも、おなじく丸木氏のあっせんで来日したチベット人留学生の女性と結婚し、今は毛呂山町の隣にある日高市にある武蔵台病院の院長を務めている。「私がチベット人だというと、まったく気づきませんでしたと驚く患者さんまでいるほどですよ」と西蔵さんは笑った。

【参考記事】五体投地で行く2400キロ。変わらない巡礼の心、変わりゆくチベット

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

MAGA派グリーン議員、トランプ氏発言で危険にさら

ビジネス

テスラ、米生産で中国製部品の排除をサプライヤーに要

ビジネス

米政権文書、アリババが中国軍に技術協力と指摘=FT

ビジネス

エヌビディア決算にハイテク株の手掛かり求める展開に
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界最高の投手
特集:世界最高の投手
2025年11月18日号(11/11発売)

日本最高の投手がMLB最高の投手に──。全米が驚愕した山本由伸の投球と大谷・佐々木の活躍

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 2
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生まれた「全く異なる」2つの投資機会とは?
  • 3
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃度を増やす「6つのルール」とは?
  • 4
    ヒトの脳に似た構造を持つ「全身が脳」の海洋生物...…
  • 5
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 6
    「不衛生すぎる」...「ありえない服装」でスタバ休憩…
  • 7
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前…
  • 8
    「イケメンすぎる」...飲酒運転で捕まった男性の「逮…
  • 9
    レアアースを武器にした中国...実は米国への依存度が…
  • 10
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 1
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 2
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披露目会で「情けない大失態」...「衝撃映像」がSNSで拡散
  • 3
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前に、男性が取った「まさかの行動」にSNS爆笑
  • 4
    『プレデター: バッドランド』は良作?駄作?...批評…
  • 5
    ドジャースの「救世主」となったロハスの「渾身の一…
  • 6
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 7
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 8
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 9
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 10
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 7
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中