最新記事

いとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く

彼らがあなたであってもよかった世界──ギリシャの難民キャンプにて

2016年11月8日(火)16時20分
いとうせいこう

彼らは俺だ

 すると、そこに美しい長衣をまとった女性が青を基調とした派手なヒジャブを頭にかぶって、これまた身なりのきれいな子供と共にゆったり歩いてきた。どう見ても中流以上の暮らしをしてきた人だった。しかも、移動の苦難を経てもなお、身だしなみを変えずにいるプライドを彼女は持っていた。

 尊厳それ自体が歩いてくるように感じた。

 まさに前回書いた「敬意」を自動的に持つ以外ない、それは悠々たる姿であった。
【前回記事】難民キャンプで暮らす人々への敬意について

 それで俺はさらに気づいたのだった。

 彼ら難民が俺たちとなんの違いもないことに。

 通常、難民と聞くと俺たちはまず経済難民を想像してしまう。貧しいがゆえに活路を他に求め、国を渡ってくる人々だ。むろん彼らも支えられるべきなのだが(ほとんどの場合、彼らの貧困には彼ら自身なんの責任もないのだから)、俺がその時目の前にしていたのは戦乱、紛争で理不尽にも家を爆撃され、街を焼かれ、銃で追い立てられた人々なのだった。

 もし日本が国際紛争に巻き込まれ、東京が戦火に包まれれば、とすぐに想像は頭に浮かんだ。

 明日、俺が彼らのようになっても不思議ではないのだ。

 だからこそ、MSFのスタッフは彼らを大切にするのだとわかった気がした。スタッフの持つ深い「敬意」は「たまたま彼らだった私」の苦難へ頭(こうべ)を垂れる態度だったのである。

 青い衣を風になびかせて自分の前を通りゆく女性を視界に入れた俺の脳裏に、「同情」という言葉が続いて浮かんできた。

 いかにも安っぽい感情として禁じられがちな「同情」。しかしギリシャにいる俺の頭には、それは同時に「compassion」という単語にもなった。気持ちを同じくすること。思いやり。

 なるほどそれは「たまたま彼らだった私」への想像なのだった。上から下へ与えるようなものではない。きわめて水平的に、まるで他者を自己として見るような態度だ。

 それは心の自己免疫疾患かもしれなかった。他人を自分としてとらえ、自分を他人としてしまうのだから。

 けれどその思考は病いではないはずだった。

 むしろ「たまたま彼らだった私」「たまたま私であった彼ら」という観点こそが、人間という集団をここまで生かしてきたのだ、と俺は思った。あるいは「彼ら」を植物や動物や鉱物や水と置き換えれば、それはインドでは輪廻転生になる。私は前世鹿やコケであったかもしれないという考えが、「たまたま私だった彼ら」「たまたま彼らだった私」という倫理を生む。また、自分のエゴで自然を脅かすべきではないと考えるエコロジーも、こうして俺たちの心の自己免疫疾患から生じているのに違いなかった。

 偉大なる「compassion」から。

 女性と子供がプレハブに入ってしまうと、あたりはまた静けさに支配された。俺は変わらず椅子に座り、気づきを言語化するのに混乱しながらしばらく時間を過ごした。


 時間と空間さえずれていれば、難民は俺であり、俺は難民なのだった。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

中国軍、台湾周辺で実弾射撃伴う演習開始 港湾など封

ビジネス

韓国クーパン、顧客情報大量流出で11.8億ドルの補

ワールド

尹前大統領の妻、金品見返りに国政介入 韓国特別検が

ビジネス

日経平均は反落、需給面での売りが重し 次第にもみ合
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 2
    マイナ保険証があれば「おくすり手帳は要らない」と考える人が知らない事実
  • 3
    【銘柄】子会社が起訴された東京エレクトロン...それでも株価が下がらない理由と、1月に強い秘密
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 6
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」と…
  • 7
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 8
    「アニメである必要があった...」映画『この世界の片…
  • 9
    2026年、トランプは最大の政治的試練に直面する
  • 10
    アメリカで肥満は減ったのに、なぜ糖尿病は増えてい…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 4
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 5
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 6
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
  • 7
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 8
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 9
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 10
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「…
  • 6
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 7
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 8
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 9
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 10
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中