ゲーム研究の現在――「没入」をめぐる動向
さて現在のゲーム研究の中で、ゲームの社会的活用やその物語構築の独自性などと並んで、もっともホットなテーマの一つに「没入(immersion)」がある。没入とはゲームの世界にのめり込むことであり、「没入させる(immersive)」という形容詞は、最近のゲームの宣伝によく見られる売り文句にもなっている。また没入は「臨場感(presence)」の同義語としてVR(バーチャルリアリティ)研究の文脈でも使用されてきた。しかしながら、没入がプレイヤーとゲーム世界との「距離」を無化するのか、そのときプレイヤーは「現実と虚構の区別」ができなくなるのか、といった点をめぐっては今も議論が絶えない。
プレイヤーはゲームが「遊び」であることを忘れ、その経験が「現実」であると信じ込んでいる、という見解を、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマン(一九六九-)は「没入の誤謬(immersive fallacy)」と呼んで退ける(『ルールズ・オブ・プレイ』、二〇〇四年)。ゲームや遊びを特徴付けるのは、それが虚構であることを知りながら、それにのめり込む、という一種の「二重意識」に他ならない、と二人は言う。メタ・コミュニケーションの理論(グレゴリー・ベイトソン)や、透明性と超越性を同時に作動させる「リメディエーション」概念(ジェイ・デイヴィッド・ボルターとリチャード・グルーシン)が、その裏付けとされる。「現実の規則」と「虚構の想像」を同時に成立させる「半-現実(Half-Real)」としてビデオゲームを定義するイェスパー・ユール(一九七〇-)も、ゲームプレイヤーが熱中するのはあくまでも「現実世界の活動」であるという考えから、サレンとジマーマンを支持する(『ハーフリアル』、二〇〇五年)。
一方、ゴードン・カジェハ(一九七七-)はこれまでの研究者が「没頭(absorption)としての没入」と「移行(transportation)としての没入」を混同してきたことを批判し、それらを区分する。その上で彼は、一方向的な含意を持つこの語に代わり、「合体(incorporation)」の概念を提唱し、それに基づき、われわれと環境(仮想現実も含む)の間に生じる双方向的浸透の過程を明らかにした(『ゲームの中――没入から合体へ』、二〇一一年)。
またゲームのプレイ経験とゲームへの没入を「多次元的現象」として捉えるラウラ・エルミとフランス・マユラは、知覚的没入、挑戦に基づく没入、想像的没入の三つを独立したタイプとして扱う「SCIモデル」を提唱した(「ゲームプレイ経験の基本要素――没入を分析する」、二〇〇五年)。このモデルは幾つかの修正も経ながら、今日でも多くの研究者によって受け入れられている。例えばヤン=ノエル・トーン(一九八一-)は、第四のタイプとして社会的没入を加えた、四分類のモデルを提起している(「再訪された没入」、二〇〇八年)。
こうした没入をめぐる研究は、ゲームプレイの経験を解明するに留まらず、そこから翻って、読書や映画鑑賞といった旧来型の――従ってインタラクティブではない――メディア経験にもあらためて光をあてる。今日ではゲーム研究の成果が、必ずしもゲームや遊びを研究対象としない認知科学者や社会科学者、教育学者などからも頻繁に参照されるのは、そうした理由による。
現代の都市生活者にとって日々の「現実」の大部分はデジタルメディアを媒介して構成されている。それこそが――背を向けることはできても――否定しようがない「現実」である。そうした時代にあって、デジタルメディアの伴侶として発展してきたゲームが、娯楽や産業の域には収まらない価値と意義を持つことは明らかだ。ゲーム研究は、今日のわれわれが「人間とは何か」を理解する上でもっとも重要なディシプリンであると言って過言ではない。
[執筆者]
吉田 寛(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授) Hiroshi Yoshida
1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了(美学芸術学専攻)。博士(文学)。東京大学大学院人文社会系研究科助教などを経て、現職。専門は美学、感性学、表象文化論。著書に『絶対音楽の美学と分裂する〈ドイツ〉』(青弓社、サントリー学芸賞)。
『アステイオン84』
特集「帝国の崩壊と呪縛」
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