日本の国技・相撲が狭量な国威発揚と無縁な理由
「日本は東夷(とうい)の住む小さな島にすぎないし、モンゴル草原は北狄(ほくてき)の巣窟だ」、と孔子の思想をあがめる「中華の人々」は隣人を古くから見下してきたが、それは偏見でしかない。日本人は古くから南洋に進出して貿易を行い、契丹の地にも925年に使者を派遣していた事実は『遼史』に記録がある。スキタイの伝統が残るモンゴル高原の住人は古くからユーラシアとの一体感を求め、洋の東西を自由に行き来していた。
海上に船を浮かべた日本人は時に海賊行為を働くこともあったし、モンゴルの遊牧民も「征服者」を演じることが多々あった。古代から国際化に慣れ切った日本人とモンゴル人には狭量なナショナリズムは希薄で、スポーツを一国のみの国威発揚に利用しようとする精神もない。
かつて朝青龍が横綱として土俵をにぎわせていた頃は、草原の国モンゴルの首都ウランバートルでは夕刻になると車も止まり、官公庁も機能を停止して相撲を観戦していた。日本語のしこ名は草原にまで伝わっていた。
今回の大相撲初場所で大関琴奨菊は横綱白鵬と日馬富士、それに鶴竜らモンゴル人たちを次から次へと連破し、「21世紀の蒙古襲来を退治」した。やがて遊牧民の「騎士」たちも捲土重来するだろう、とモンゴルの新聞は書いている。
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スポーツのルーツを探求するのはロマンを感じるが、「純血」にこだわるのはあまり意味がない。文化は高次元のところから低次元の地へ広がるものではなく、同時多発的に発展するのが一般的だ。日本列島はまさに文明の吹きだまりのように、ユーラシアのあらゆる文化が導入されて定着したところだ。いわば、太古の昔からグローバリゼーションを実践してきた民族だ。
政治化し、国威発揚と利益を優先してきた世界のスポーツ界は、海の民・日本と草原の民モンゴルの国際性に見習う必要があるかもしれない。
[2016年2月 9日号掲載]